2014年06月19日
恋する牛深八景
こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!
このブログの書き始めは2012年09月28日でした。
それから1年と8ヶ月ですね。
このブログを書くまではそんなに頻繁に牛深へ帰ることもなかったんですけど、それ以降何度も帰りたくて時間を作っては帰りました。
もう一度自分で思い出し簡単に振り返りたいと思います。
第一景→こちら
最初に描こうとしてたところは違う場所だったの思い出しました。結局その場所は八景まで描いてみても入っていませんでした。お話をお聞きしながら実際歩いてみて描きたいなぁと思った場所は想像とは違っていたということでしょう。まぁいつかその場所も描くことになると思いますけどね。
第二景→こちら
せどわという細い道のことはよく紹介されているのは知ってました。だけど残念ながら海に面した場所では全国あちらこちらにありPRするところはそこではなく、そこに道の名前まで付いていたというのが特別に思えおもしろくここまで紹介して欲しいという提案をしました。
この点は牛深のパンフレットなどに記載されるようになるまで私は言い続けようと思います。
第三景→こちら
江戸時代から昭和に入るぐらいまで牛深のかつお節や干鰯は大阪と取引していたということは牛深の方々はご存知のことだと思う。牛深の商家の末裔家には当時の古い家具が残されていて、その品質の高さに牛深の造船業が盛んだったためその船大工たちが作ったのだろうと思われていたのだが、後に大阪の家具屋が作ったとわかる証拠が見つかったことに裏付けされたそうだ。
かつおは関西のうどんの出汁に、干鰯は綿作の魚肥としてとても重宝されたそうです。今の関西のうどんの味は牛深の鰹で出来ていたのではないかという歴史。牛深出身で今関西にお住みの方はうどんを食べて牛深のことを思い出して欲しい。
そして何より、江戸時代の通貨は江戸中心は金(きん)、上方中心(関西)は銀で値段が付けられていた。
これは金と銀どちらが本位でどちらが補助かという優劣が付けられていたわけではなく国内で使われるお金(かね)が二種類存在したといえばわかりやすいだろうか。日本国内で円とドルのような二種類のお金が西中心と東中心で別れ使われていたようなものといえばもっとわかりやすいかな。
三景で描いた新銀取坂。銀という名前が残っているのは大阪と取引をやっていた証拠の一つではないか。
牛深の先人は遊郭のことを大きな声で言って来なかった。それには時代とはいえ悲しい歴史もそこにあったから。だから私もそれを受け継いでこれから先も広めようとは思わない。だけど避けれない歴史もあってその代わりこの新銀取坂のエピソードで牛深の女性の、男性を立てながらの賢さやしたたかさを残したいという想いでした。
ちなみに松の葉を集めていたのは新銀取坂と加世浦公園の中間辺りに船たで場という場所がありそこで船に付く虫を払う目的で火で炙っていたそうですがその為に集めていたそうです。
第四景→こちら
昭和23年に描かれた加世浦公民館にあるあの絵があったから比較のために描けた。
これはほんとおもしろい経験でした。
写真で比較することはあるかもしれませんがそれでも面白いのに、牛深を絵に残してくれてたことがうれしく、こんなこと他でやりたくてもできません。66年の時を経てその絵を描かれた方に感謝、それを保存されてきた地区の方たちにももちろん感謝ですね。
そしてさらに面白くなる。後に手に入れたのがこの絵。

藍より青くで周一の父・村上周造役を演じられた佐野浅夫さんが牛深を訪れたときに描かれた。
1972年の作。ということは順番で言えば公民館の絵、佐野さんの絵、私の絵ということになりますね。佐野浅夫さんといえば私の年代は水戸黄門でよく知っています。この絵を見るとやはり泳いで競い合った島は戸島になるんだろうな。まきしゃん達が駆け付けた防波堤は一文字防波堤で間違いないかも。それにしても戸島まで泳げるものなのだろうか?昔の人達は泳いでいたのかな?だったらびっくり。
あ、ちなみに藍より青くで実際使用された台本もゲットできました。
いろいろ書き込みもされていますので機会があれば公開できればいいなぁと思います。

第五景→こちら
べざいてんが美しくてときめいた。
確認はしておりませんが埋め立てられはしたものの弁財天さまは今もいらっしゃるとか。
場所が残っているとしたらぜひ行ってみるべきだな。うん。
磯節も元ハイヤを踊られる加世浦恵美須会の方たちが踊って唄われるのも拝見させて頂きました。
通天公園での私の子供の頃のエピソードが今の私に多大な影響を与えたということを、私の親はこれを読んで初めて知ったそうだwわたしがいかに幼少期恥ずかしがり屋で自分の気持ちを外に出さなかったかということだろう。だけど自分の心のなかには大きく残っていた。
第六景→こちら
龍仙島のことを何も知らないに等しかった。
調べていくうちにとても大事だとわかった。
龍仙島や恵美須神社、旧牛深小校歌から浦島伝説が牛深にあったと書いた。
のちに牛深に伝わる民話をいくつか聞かせてもらった。その中にこんなお話があった。
簡単にまとめます。
牛深には船祝いと言って仕事を一切休む日があり、ご馳走で一日中酒盛りをするのですが
その日に掟を破り一人のいやしい漁師が薪を独り占めしようと拾いに海岸へいく。拾いながら洞窟の近くに行くと中で酒盛りをする神様たちを発見する。神様もこの日にまさか人間がここに来るとは思ってもおらず驚く。竜宮様と乙姫様がお見えになる前祝いをしていた。このことを誰にも言わないという約束で代わりにお酒の湧き出る魔法の杯をもらうが、案の定、村でばらしてしまう。その後その杯で酒を飲むと舌がしびれ話すことができなくなるというお話。
もう一つ。
唐津の石工が鳥居を船で牛深に運んできた。だがこれを注文した覚えのある者がいない。石工はお代はもう頂いているので置いていくという。
そこに白衣の乙姫様が現れた。信仰心のある正直者の為に神様が注文したとの事。その鳥居を建てたことにより大漁が続き人々の暮らしは楽になり、暴風が吹いても船の事故が無くなったとというお話。
この二つの民話がダメ押しでしょう。牛深には浦島伝説が確実にあった。恵美須神社が浦島太郎を祀っていてそして牛小校歌に浦島のメロディを載せた。
第七景→こちら
この瀬崎の辺りはたくさんの方に想い出があると思う。昭和の歴史を感じる人は多いだろう。
そこに江戸時代の歴史とモーニング娘で現代の歴史も付け加えた。
先日の熊日に直接は関係しませんが最近中国が遣隋使の時代に使っていた唐船を覆刻させたとの記事が載っていた。その唐船がこちら↓

私がお話をお伺いしている郷土史家さんは江戸時代に長崎に来ていた唐船を元に瀬崎に繋がれている唐船を描かれた。
時代は違えど帆部分が折りたたみ出来る点や構造が似ている。これを見て心が踊った。
瀬崎のその場所に立って江戸時代の唐船が繋がれているのを想像してもいい、モーニング娘がここに立ったって思ってもいい。そんな風に思っていたらここに歴史説明板があってもいいなぁと思いました。どうでしょうか?
第八景→こちら
炭鉱の時代は短かったがこれも牛深の歴史だった。
そして龍仙島。東シナ海に沈む夕陽と二つの大事にされてきた歴史。これもまたとても魅力的だ。
*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.
こうやって私自身牛深をいろんな視点で見直す事が出来て、新しい発見ばかりだった。
描き始める前の自分と今の自分は別人であるぐらい歴史を知ることが出来た。
まだまだ観光資源たくさんあるじゃんってうれしく思った。これにまだ御番所が残っている。
改めて、お付き合いしていただいたこれを読んでくださった方々に感謝。
そして牛深在住のみなさまと同じように、八景を描き終えて私にも言わせていただきたい。
ふるさと牛深を愛してますと。
はじめましての人ははじめまして!
このブログの書き始めは2012年09月28日でした。
それから1年と8ヶ月ですね。
このブログを書くまではそんなに頻繁に牛深へ帰ることもなかったんですけど、それ以降何度も帰りたくて時間を作っては帰りました。
もう一度自分で思い出し簡単に振り返りたいと思います。
第一景→こちら
最初に描こうとしてたところは違う場所だったの思い出しました。結局その場所は八景まで描いてみても入っていませんでした。お話をお聞きしながら実際歩いてみて描きたいなぁと思った場所は想像とは違っていたということでしょう。まぁいつかその場所も描くことになると思いますけどね。
第二景→こちら
せどわという細い道のことはよく紹介されているのは知ってました。だけど残念ながら海に面した場所では全国あちらこちらにありPRするところはそこではなく、そこに道の名前まで付いていたというのが特別に思えおもしろくここまで紹介して欲しいという提案をしました。
この点は牛深のパンフレットなどに記載されるようになるまで私は言い続けようと思います。
第三景→こちら
江戸時代から昭和に入るぐらいまで牛深のかつお節や干鰯は大阪と取引していたということは牛深の方々はご存知のことだと思う。牛深の商家の末裔家には当時の古い家具が残されていて、その品質の高さに牛深の造船業が盛んだったためその船大工たちが作ったのだろうと思われていたのだが、後に大阪の家具屋が作ったとわかる証拠が見つかったことに裏付けされたそうだ。
かつおは関西のうどんの出汁に、干鰯は綿作の魚肥としてとても重宝されたそうです。今の関西のうどんの味は牛深の鰹で出来ていたのではないかという歴史。牛深出身で今関西にお住みの方はうどんを食べて牛深のことを思い出して欲しい。
そして何より、江戸時代の通貨は江戸中心は金(きん)、上方中心(関西)は銀で値段が付けられていた。
これは金と銀どちらが本位でどちらが補助かという優劣が付けられていたわけではなく国内で使われるお金(かね)が二種類存在したといえばわかりやすいだろうか。日本国内で円とドルのような二種類のお金が西中心と東中心で別れ使われていたようなものといえばもっとわかりやすいかな。
三景で描いた新銀取坂。銀という名前が残っているのは大阪と取引をやっていた証拠の一つではないか。
牛深の先人は遊郭のことを大きな声で言って来なかった。それには時代とはいえ悲しい歴史もそこにあったから。だから私もそれを受け継いでこれから先も広めようとは思わない。だけど避けれない歴史もあってその代わりこの新銀取坂のエピソードで牛深の女性の、男性を立てながらの賢さやしたたかさを残したいという想いでした。
ちなみに松の葉を集めていたのは新銀取坂と加世浦公園の中間辺りに船たで場という場所がありそこで船に付く虫を払う目的で火で炙っていたそうですがその為に集めていたそうです。
第四景→こちら
昭和23年に描かれた加世浦公民館にあるあの絵があったから比較のために描けた。
これはほんとおもしろい経験でした。
写真で比較することはあるかもしれませんがそれでも面白いのに、牛深を絵に残してくれてたことがうれしく、こんなこと他でやりたくてもできません。66年の時を経てその絵を描かれた方に感謝、それを保存されてきた地区の方たちにももちろん感謝ですね。
そしてさらに面白くなる。後に手に入れたのがこの絵。

藍より青くで周一の父・村上周造役を演じられた佐野浅夫さんが牛深を訪れたときに描かれた。
1972年の作。ということは順番で言えば公民館の絵、佐野さんの絵、私の絵ということになりますね。佐野浅夫さんといえば私の年代は水戸黄門でよく知っています。この絵を見るとやはり泳いで競い合った島は戸島になるんだろうな。まきしゃん達が駆け付けた防波堤は一文字防波堤で間違いないかも。それにしても戸島まで泳げるものなのだろうか?昔の人達は泳いでいたのかな?だったらびっくり。
あ、ちなみに藍より青くで実際使用された台本もゲットできました。
いろいろ書き込みもされていますので機会があれば公開できればいいなぁと思います。

第五景→こちら
べざいてんが美しくてときめいた。
確認はしておりませんが埋め立てられはしたものの弁財天さまは今もいらっしゃるとか。
場所が残っているとしたらぜひ行ってみるべきだな。うん。
磯節も元ハイヤを踊られる加世浦恵美須会の方たちが踊って唄われるのも拝見させて頂きました。
通天公園での私の子供の頃のエピソードが今の私に多大な影響を与えたということを、私の親はこれを読んで初めて知ったそうだwわたしがいかに幼少期恥ずかしがり屋で自分の気持ちを外に出さなかったかということだろう。だけど自分の心のなかには大きく残っていた。
第六景→こちら
龍仙島のことを何も知らないに等しかった。
調べていくうちにとても大事だとわかった。
龍仙島や恵美須神社、旧牛深小校歌から浦島伝説が牛深にあったと書いた。
のちに牛深に伝わる民話をいくつか聞かせてもらった。その中にこんなお話があった。
簡単にまとめます。
牛深には船祝いと言って仕事を一切休む日があり、ご馳走で一日中酒盛りをするのですが
その日に掟を破り一人のいやしい漁師が薪を独り占めしようと拾いに海岸へいく。拾いながら洞窟の近くに行くと中で酒盛りをする神様たちを発見する。神様もこの日にまさか人間がここに来るとは思ってもおらず驚く。竜宮様と乙姫様がお見えになる前祝いをしていた。このことを誰にも言わないという約束で代わりにお酒の湧き出る魔法の杯をもらうが、案の定、村でばらしてしまう。その後その杯で酒を飲むと舌がしびれ話すことができなくなるというお話。
もう一つ。
唐津の石工が鳥居を船で牛深に運んできた。だがこれを注文した覚えのある者がいない。石工はお代はもう頂いているので置いていくという。
そこに白衣の乙姫様が現れた。信仰心のある正直者の為に神様が注文したとの事。その鳥居を建てたことにより大漁が続き人々の暮らしは楽になり、暴風が吹いても船の事故が無くなったとというお話。
この二つの民話がダメ押しでしょう。牛深には浦島伝説が確実にあった。恵美須神社が浦島太郎を祀っていてそして牛小校歌に浦島のメロディを載せた。
第七景→こちら
この瀬崎の辺りはたくさんの方に想い出があると思う。昭和の歴史を感じる人は多いだろう。
そこに江戸時代の歴史とモーニング娘で現代の歴史も付け加えた。
先日の熊日に直接は関係しませんが最近中国が遣隋使の時代に使っていた唐船を覆刻させたとの記事が載っていた。その唐船がこちら↓

私がお話をお伺いしている郷土史家さんは江戸時代に長崎に来ていた唐船を元に瀬崎に繋がれている唐船を描かれた。
時代は違えど帆部分が折りたたみ出来る点や構造が似ている。これを見て心が踊った。
瀬崎のその場所に立って江戸時代の唐船が繋がれているのを想像してもいい、モーニング娘がここに立ったって思ってもいい。そんな風に思っていたらここに歴史説明板があってもいいなぁと思いました。どうでしょうか?
第八景→こちら
炭鉱の時代は短かったがこれも牛深の歴史だった。
そして龍仙島。東シナ海に沈む夕陽と二つの大事にされてきた歴史。これもまたとても魅力的だ。
*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.
こうやって私自身牛深をいろんな視点で見直す事が出来て、新しい発見ばかりだった。
描き始める前の自分と今の自分は別人であるぐらい歴史を知ることが出来た。
まだまだ観光資源たくさんあるじゃんってうれしく思った。これにまだ御番所が残っている。
改めて、お付き合いしていただいたこれを読んでくださった方々に感謝。
そして牛深在住のみなさまと同じように、八景を描き終えて私にも言わせていただきたい。
ふるさと牛深を愛してますと。
2014年06月13日
食事は体の栄養、読書は心の栄養
こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!
昨日は熊本環境保全協議会設立20周年記念式典に参加してきました。
辛坊治郎さんの講演会があったからです。
辛抱さんクラスの講演会ってなかなか熊本では聞けないなと思ってこれは行かないとなって思って参加致しました。
式典自体は熊本の有名地場産業の社長さんたちや蒲島知事やくまモンまで来場してて会場も500名だったかな?!超満員でございました。熊本の環境保全活動も素晴らしいですね!

辛抱さんのお話もとてもおもしろく、当たり前ですがとてもお話がうまいw
テレビでは言えないお話とかブログとかに書かないでねって言われてたことはもちろん書きませんがwテレビ見てて知りたかったこととか結構暴露話もされてました。
名前も伏せるとかおっしゃりながら最後にはきちんと落ちとして名前を出されるのはほんと面白かったですね。
そして一番聞きたかったのはたぶんみなさんあの海難事故のお話だったと思いますが、そのお話もたっぷりされました。あの事故で生き残れたのには辛抱さんにとってたくさんの偶然の奇跡があったようだ。
緊急用のGPSや衛生携帯をスタッフが用意してくれてなかったら・・・
海上自衛隊の飛行艇パイロットが嵐の中着水を試みてくれなかったら・・・
その着水でエンジン一つに海水を被り故障して今も整備に入っているそうだ。その飛行艇の活動飛行範囲もぎりぎりだったらしい。
割愛しますがその他たくさんの奇跡が重なって今生きていると。
偶然の奇跡と書いたが、辛抱さんは奇跡という不確定な言葉は使われない。今回伝えやすく書いただけで実はこの奇跡と思っていることはすべてそれに関わる人の意志がそこにあったからだとおっしゃった。
もちろん直接動いてくれた方々はそうですが、いろんな船の設備だったり、飛行艇だったりを作った人や開発した人は知り合いではない。でもそういう方がいたから目にみえない人の存在もそこで実感できたそうだ。
辛抱さんを助けたUS2という飛行艇は荒波の中離着陸が出来る救助艇でそれが出来るのは世界中探しても日本にしかない。日本以外の国だったらお亡くなりになられてた。それが実状。
そしてそれはもちろんのこと日本国民の税金で運営されている飛行艇だ。
こういうことから心の底から辛抱さんは『この国の国民で良かった』との言葉が自然と出たそうだ。
今目の前にいるみなさんによって私は生かされてるということだった。
私は自分に関係する周りに見えている人たちによって生かされてるとは思ってた。でも辛抱さんの話を聞いて目に見えなくても僕を生かしてくれている人がいるんだと教えられて納得した。ほんとに生死の境を体験した人の言葉はすげぇな。
あぁそうか。
僕が生まれた日本を好きだと思う気持ちは理由ははっきりわかってなかったがそういうことなんだ。
この素晴らしいと思う日本をまた下の世代に受け継いでいかないと行けないというのが、先人から受け継いだ今を生きる人たちの使命なのだと。これを基本に間違わなければそれが正しい道だという結論をおっしゃった。
僕がわからないまま始めたこの牛深八景も最終景に進むにつれてその答えに辿り着いていた。
進む道は間違っていなかったとはっきり言葉で後押しされたような気がしてとても心がすっきりした。
食事は体の栄養、読書は心の栄養と言われていて、題名に使用しましたがここに講演会も心の栄養だなと付け加えたいと思います。
そして人だかりの中エレベーターに乗られる辛抱さんにお話ありがとうございましたと伝え握手をしてもらえました。本持って行ったらサインしてもらえてたなと少し心残り。でもとても嬉しく有意義な時間でございました。ありがとうございました。
*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.
芸能人つながりということでw
熊日さんからいただきました。

AKB総選挙が巷では騒がれておりましたが、個人的にはよくわかりません。
ですがこのコは熊本出身で熊日のマスコットになられているので県民として応援しないわけにはいかないでしょうね。
今回の順位を調べてみましたが残念ながら圏外だったそうで来年こそはランクイン出来るように熊本県民総出で応援出来たらいいですね!
ちなみに牛深出身からはAKB系に入ってるコはいないのかな?牛深出身のコが出ましたら教えて下さいね!
はじめましての人ははじめまして!
昨日は熊本環境保全協議会設立20周年記念式典に参加してきました。
辛坊治郎さんの講演会があったからです。
辛抱さんクラスの講演会ってなかなか熊本では聞けないなと思ってこれは行かないとなって思って参加致しました。
式典自体は熊本の有名地場産業の社長さんたちや蒲島知事やくまモンまで来場してて会場も500名だったかな?!超満員でございました。熊本の環境保全活動も素晴らしいですね!

辛抱さんのお話もとてもおもしろく、当たり前ですがとてもお話がうまいw
テレビでは言えないお話とかブログとかに書かないでねって言われてたことはもちろん書きませんがwテレビ見てて知りたかったこととか結構暴露話もされてました。
名前も伏せるとかおっしゃりながら最後にはきちんと落ちとして名前を出されるのはほんと面白かったですね。
そして一番聞きたかったのはたぶんみなさんあの海難事故のお話だったと思いますが、そのお話もたっぷりされました。あの事故で生き残れたのには辛抱さんにとってたくさんの偶然の奇跡があったようだ。
緊急用のGPSや衛生携帯をスタッフが用意してくれてなかったら・・・
海上自衛隊の飛行艇パイロットが嵐の中着水を試みてくれなかったら・・・
その着水でエンジン一つに海水を被り故障して今も整備に入っているそうだ。その飛行艇の活動飛行範囲もぎりぎりだったらしい。
割愛しますがその他たくさんの奇跡が重なって今生きていると。
偶然の奇跡と書いたが、辛抱さんは奇跡という不確定な言葉は使われない。今回伝えやすく書いただけで実はこの奇跡と思っていることはすべてそれに関わる人の意志がそこにあったからだとおっしゃった。
もちろん直接動いてくれた方々はそうですが、いろんな船の設備だったり、飛行艇だったりを作った人や開発した人は知り合いではない。でもそういう方がいたから目にみえない人の存在もそこで実感できたそうだ。
辛抱さんを助けたUS2という飛行艇は荒波の中離着陸が出来る救助艇でそれが出来るのは世界中探しても日本にしかない。日本以外の国だったらお亡くなりになられてた。それが実状。
そしてそれはもちろんのこと日本国民の税金で運営されている飛行艇だ。
こういうことから心の底から辛抱さんは『この国の国民で良かった』との言葉が自然と出たそうだ。
今目の前にいるみなさんによって私は生かされてるということだった。
私は自分に関係する周りに見えている人たちによって生かされてるとは思ってた。でも辛抱さんの話を聞いて目に見えなくても僕を生かしてくれている人がいるんだと教えられて納得した。ほんとに生死の境を体験した人の言葉はすげぇな。
あぁそうか。
僕が生まれた日本を好きだと思う気持ちは理由ははっきりわかってなかったがそういうことなんだ。
この素晴らしいと思う日本をまた下の世代に受け継いでいかないと行けないというのが、先人から受け継いだ今を生きる人たちの使命なのだと。これを基本に間違わなければそれが正しい道だという結論をおっしゃった。
僕がわからないまま始めたこの牛深八景も最終景に進むにつれてその答えに辿り着いていた。
進む道は間違っていなかったとはっきり言葉で後押しされたような気がしてとても心がすっきりした。
食事は体の栄養、読書は心の栄養と言われていて、題名に使用しましたがここに講演会も心の栄養だなと付け加えたいと思います。
そして人だかりの中エレベーターに乗られる辛抱さんにお話ありがとうございましたと伝え握手をしてもらえました。本持って行ったらサインしてもらえてたなと少し心残り。でもとても嬉しく有意義な時間でございました。ありがとうございました。
*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.
芸能人つながりということでw
熊日さんからいただきました。

AKB総選挙が巷では騒がれておりましたが、個人的にはよくわかりません。
ですがこのコは熊本出身で熊日のマスコットになられているので県民として応援しないわけにはいかないでしょうね。
今回の順位を調べてみましたが残念ながら圏外だったそうで来年こそはランクイン出来るように熊本県民総出で応援出来たらいいですね!
ちなみに牛深出身からはAKB系に入ってるコはいないのかな?牛深出身のコが出ましたら教えて下さいね!