2020年10月11日
天草関係歴史書物語3
第三章 天草の言葉
「ふるさとの訛(なま)りなつかし停車場の 人ごみの中に其(そ)を聞きに行く」石川啄木
他所にいて故郷の方言を聞くときの懐かしさと嬉しさは他に例えようもない。それが見ず知らずの他人であっても走り寄って話しかけずにはいられないような親しみを感じるという歌だ。天草の方言を書く前に有名歌人の歌で方言の良さを教えてくれるこの書き方好きだな。現在天草を離れている私にとって方言って文化の継続を難しく考えないで感じることができるものだととても感じている。聞きなれた方言の一語一語には幼き日の思い出が秘められてまたその過去の生活が隠されている。
「九州の方言は、豊日方言と薩隅方言と肥筑方言の3つに大別されるが、我が天草の言葉はその中の肥筑方言の一部である。したがって『よか(よい)、甘か(甘い)、ばってん(けれども)等、』肥筑方言の特色をいろいろ備えている。けれども島国であるから自然に他の地方と違った特色も生じて来たのである。」
肥後?筑豊?全然違うやろとかまだ言わないで最後まで読んでください。大まかに言えばそこに分類されるらしい。
「温和な気候と麗しい風光に恵まれた我が天草の自然は、人情をやわらげ人々の生活を長閑(のどか)にする。言葉の調子にのんびりした特徴が出てきたのも最もなことである。『けー(こい)、いけー(いけ)、わーりや(お前は)』等の延音の多いことや、語尾に『ない、なん、ね、もん、ばへ、じゃん』等悠長な言葉の多いのはこの例である。」
「日常の言葉に古語が残っているのも面白い。『とぜんなか(淋しい)、あったらしか(惜しい)、あゆる(落ちる)、こらした(こられた)、いかした(いかれた)等』中には熊本長崎地方ですでに滅びたものも残っている。これらは古代都で行われたものが池の波紋の様に周囲に伝わって今に面影を止めているのである。
『あっちみんみろ(あっち向いてみよ)、そがんこつばゆんみろ(言ってみよ)』等の撥ねる音や『おるがしたつじゃっとん(俺がしたのであるが)、くだっせ(ください)』等つまる音の多いこともまた大きな特徴の一つである。」
「しかし天草は東西に南北に長く、かつ広い。その上複雑な歴史も影響して言葉も決して一様ではない。『雨が降るから』と言う時に大矢野方面では『降るけん』が多く、牛深方面では『降っでー』が多い。又、敬語の『なさる』を前者では『しなはる』後者では『さす』と用いている。」
「その他いろいろ比較してみると、東部は熊本系統を帯び、南部は薩摩系統、富岡方面で『召し上がって下さい』を『召し上がっておせつけまっせ』といったり、支那語の『ろーはつせん(落花生)』ポルトガル語『バンゴ(腰がけ台)』が用いられたりすることを考えると北西部は長崎系統である。交通の発達につれて本渡付近が熊本弁に、上島の南海岸が八代芦北方言に似ていく。」
このブログを読んでらっしゃる方はこの上記の理由はおわかりでしょう。
富岡は長崎奉行が治めたので長崎寄り、唯一海外貿易を許されていた長崎への通り道だったので中国やポルトガルの言葉が伝わった。海路しかないい時代牛深は薩摩から中央(都)へのメイン通り道なので薩摩の明治維新の立役者らが牛深に来ていた。薩摩の討幕派を警戒する為幕府は天草を天領にして牛深に御番所を置いた。こういう歴史がある為南部は薩摩系統なのである。もう少し付け足すと薩摩方言の訛りが激しいのは幕府の隠密(スパイ)を見分けるためにわざと独自の訛りを使っていた。幕末から明治は権力と反権力のスパイ合戦でもありました。
この天草読本では最後に天草の人が熊本へ出て訛りで馬鹿にされないように注意点が書いてあった。
天草の人は『出る』と『出来る』の区別が逆だったらしい。例として『試験がよく出た(できた)』とか『お月様が出来た(出た)』と言って笑われていたらしい。そのほか『ひ』と『ふ』を入れ変えていたり『だ』と『ら』も入れ替えてたらしい。例は『ひろしき(風呂敷)、ひく(吹く)、だっきゅう(落球)』など。他所の人の非難を逃れ郷土を発展させるためにこういうのを止めた方がいいと締めくくってある。まぁ、今その名残はないと感じますが実際はどうなんでしょうね?
「ふるさとの訛(なま)りなつかし停車場の 人ごみの中に其(そ)を聞きに行く」石川啄木
他所にいて故郷の方言を聞くときの懐かしさと嬉しさは他に例えようもない。それが見ず知らずの他人であっても走り寄って話しかけずにはいられないような親しみを感じるという歌だ。天草の方言を書く前に有名歌人の歌で方言の良さを教えてくれるこの書き方好きだな。現在天草を離れている私にとって方言って文化の継続を難しく考えないで感じることができるものだととても感じている。聞きなれた方言の一語一語には幼き日の思い出が秘められてまたその過去の生活が隠されている。
「九州の方言は、豊日方言と薩隅方言と肥筑方言の3つに大別されるが、我が天草の言葉はその中の肥筑方言の一部である。したがって『よか(よい)、甘か(甘い)、ばってん(けれども)等、』肥筑方言の特色をいろいろ備えている。けれども島国であるから自然に他の地方と違った特色も生じて来たのである。」
肥後?筑豊?全然違うやろとかまだ言わないで最後まで読んでください。大まかに言えばそこに分類されるらしい。
「温和な気候と麗しい風光に恵まれた我が天草の自然は、人情をやわらげ人々の生活を長閑(のどか)にする。言葉の調子にのんびりした特徴が出てきたのも最もなことである。『けー(こい)、いけー(いけ)、わーりや(お前は)』等の延音の多いことや、語尾に『ない、なん、ね、もん、ばへ、じゃん』等悠長な言葉の多いのはこの例である。」
「日常の言葉に古語が残っているのも面白い。『とぜんなか(淋しい)、あったらしか(惜しい)、あゆる(落ちる)、こらした(こられた)、いかした(いかれた)等』中には熊本長崎地方ですでに滅びたものも残っている。これらは古代都で行われたものが池の波紋の様に周囲に伝わって今に面影を止めているのである。
『あっちみんみろ(あっち向いてみよ)、そがんこつばゆんみろ(言ってみよ)』等の撥ねる音や『おるがしたつじゃっとん(俺がしたのであるが)、くだっせ(ください)』等つまる音の多いこともまた大きな特徴の一つである。」
「しかし天草は東西に南北に長く、かつ広い。その上複雑な歴史も影響して言葉も決して一様ではない。『雨が降るから』と言う時に大矢野方面では『降るけん』が多く、牛深方面では『降っでー』が多い。又、敬語の『なさる』を前者では『しなはる』後者では『さす』と用いている。」
「その他いろいろ比較してみると、東部は熊本系統を帯び、南部は薩摩系統、富岡方面で『召し上がって下さい』を『召し上がっておせつけまっせ』といったり、支那語の『ろーはつせん(落花生)』ポルトガル語『バンゴ(腰がけ台)』が用いられたりすることを考えると北西部は長崎系統である。交通の発達につれて本渡付近が熊本弁に、上島の南海岸が八代芦北方言に似ていく。」
このブログを読んでらっしゃる方はこの上記の理由はおわかりでしょう。
富岡は長崎奉行が治めたので長崎寄り、唯一海外貿易を許されていた長崎への通り道だったので中国やポルトガルの言葉が伝わった。海路しかないい時代牛深は薩摩から中央(都)へのメイン通り道なので薩摩の明治維新の立役者らが牛深に来ていた。薩摩の討幕派を警戒する為幕府は天草を天領にして牛深に御番所を置いた。こういう歴史がある為南部は薩摩系統なのである。もう少し付け足すと薩摩方言の訛りが激しいのは幕府の隠密(スパイ)を見分けるためにわざと独自の訛りを使っていた。幕末から明治は権力と反権力のスパイ合戦でもありました。
この天草読本では最後に天草の人が熊本へ出て訛りで馬鹿にされないように注意点が書いてあった。
天草の人は『出る』と『出来る』の区別が逆だったらしい。例として『試験がよく出た(できた)』とか『お月様が出来た(出た)』と言って笑われていたらしい。そのほか『ひ』と『ふ』を入れ変えていたり『だ』と『ら』も入れ替えてたらしい。例は『ひろしき(風呂敷)、ひく(吹く)、だっきゅう(落球)』など。他所の人の非難を逃れ郷土を発展させるためにこういうのを止めた方がいいと締めくくってある。まぁ、今その名残はないと感じますが実際はどうなんでしょうね?
2020年10月04日
天草関係歴史書物語2
天草読本昭和16年9月1日発行の第二章から。
第二章はこの本で唯一人物の紹介だった。補足を加えながら抜粋省略転載す。
竹添進一郎。
「文学博士竹添進一郎先生は、天保13(1842)年天草の上村(現在の大矢野町)に生まれ、大正6年小田原に没せられるまで国家の為の貢献をなされた偉人である。
14歳の時に熊本にでられ儒学者木下韡村(きのしたるそん)先生のお弟子になられた。生来聡明なうえに学問に励まれたので木下一門の四天王となり、学問では第一番であったとのこと。」
ちょっと待て木下韡村ってあの横井小楠先生のお師匠さんではないですか。
木下一門を調べてみた。井上毅、木村弦雄、古荘嘉門、元田永孚(ながざね)。
この そうそうたるメンバーの中で学問1番?これはやばいな。
井上毅先生は明治憲法作った人。詳しくはこちら→(明治を学ぶ19)。そして元田永孚先生と一緒に教育勅語作った人。詳しくはこちら→(明治を学ぶ23)
「そんな人たちと一緒に学んだ竹添進一郎は明治8年東京にでた後、天津領事となり、明治16年には朝鮮公使として京城へ赴任。この頃は朝鮮の国が二派に別れ対立し非常に乱れていたので先生の苦心は一通りではなかった。あまつさえ清国が自国の権力を朝鮮に張らんとしてたので、遂に翌17年には京城に事変が勃発するに至った。この時先生は東洋平和の為に苦心に苦心を重ねたのみならず自ら日本軍を率いて清国の大群と戦を交えて大功を建てられた。明治26年には東京帝国大学名誉教授となり叙位の従三位勲三等を賜った」
17年には京城に事変というのは甲申事変(こうしんじへん)詳しくはこちら→(明治を学ぶ18)の事か。実はこれ日本にとって清と天津条約結べて結構大きな出来事で、それが後に日清戦争になるんやけど、このときの朝鮮公使って天草人だったんだ!驚き。ほんと幕末から明治って薩摩が武力に特化してて肥後では学問に特化してたんやな。そういう風土だってことがわかった。
そして第三章。天草の言葉に続く。
第二章はこの本で唯一人物の紹介だった。補足を加えながら抜粋省略転載す。
竹添進一郎。
「文学博士竹添進一郎先生は、天保13(1842)年天草の上村(現在の大矢野町)に生まれ、大正6年小田原に没せられるまで国家の為の貢献をなされた偉人である。
14歳の時に熊本にでられ儒学者木下韡村(きのしたるそん)先生のお弟子になられた。生来聡明なうえに学問に励まれたので木下一門の四天王となり、学問では第一番であったとのこと。」
ちょっと待て木下韡村ってあの横井小楠先生のお師匠さんではないですか。
木下一門を調べてみた。井上毅、木村弦雄、古荘嘉門、元田永孚(ながざね)。
この そうそうたるメンバーの中で学問1番?これはやばいな。
井上毅先生は明治憲法作った人。詳しくはこちら→(明治を学ぶ19)。そして元田永孚先生と一緒に教育勅語作った人。詳しくはこちら→(明治を学ぶ23)
「そんな人たちと一緒に学んだ竹添進一郎は明治8年東京にでた後、天津領事となり、明治16年には朝鮮公使として京城へ赴任。この頃は朝鮮の国が二派に別れ対立し非常に乱れていたので先生の苦心は一通りではなかった。あまつさえ清国が自国の権力を朝鮮に張らんとしてたので、遂に翌17年には京城に事変が勃発するに至った。この時先生は東洋平和の為に苦心に苦心を重ねたのみならず自ら日本軍を率いて清国の大群と戦を交えて大功を建てられた。明治26年には東京帝国大学名誉教授となり叙位の従三位勲三等を賜った」
17年には京城に事変というのは甲申事変(こうしんじへん)詳しくはこちら→(明治を学ぶ18)の事か。実はこれ日本にとって清と天津条約結べて結構大きな出来事で、それが後に日清戦争になるんやけど、このときの朝鮮公使って天草人だったんだ!驚き。ほんと幕末から明治って薩摩が武力に特化してて肥後では学問に特化してたんやな。そういう風土だってことがわかった。
そして第三章。天草の言葉に続く。
2020年10月03日
天草関係歴史書物語1
最近先日上げた天草読本の他にも偶然にも機会があり数冊明治期大正期の天草関係書物を手に入れた。
明治期でいえばもちろん幕末を生きていた方々が書いたり語り継いでいたりしているわけで、今の現在まで残っていない話も多い。もちろん大正期の書物も明治期の事は経験してるわけで今よりも信ぴょう性が高いものが書かれていると思っている。読むのが楽しくて仕方ない。
こっちのブログではそちらの中身を部分公開しながら解説補足を残していこうと思う。

まずこの天草読本昭和16年9月1日発行のものから。
日本の時代背景としては昭和12年に支那事変が起こり大東亜戦争がはじまり、16年の12月にいわゆる真珠湾攻撃の太平洋戦争が始まる。その慌ただしい時代の天草の地理歴史を教える中学年用の教科書のようなものである。
冒頭に天草の成り立ちで始まる。抜粋転載する。
「遠き神代の天草は、天の両屋(ふたや)と呼びなされ建島松の命こそ、国造りとして在せしが、奈良朝時代肥の国の一郡となり、その後は、星霜(せいそう)流れて幾變遷(いくへんせん)、古風を傳(つた)えて今も尚(なお)、純情素朴な島でございます。」
天の両屋とはたぶん天草上島と下島のことかな。確かこれは古事記に書いてあったと思う。
建島松の命とは成務天皇の子(皇子)天草最初の国造りとなられた方。成務天皇とのことなので初代神武天皇からすると13代の天皇ですね。わかりやすい時代区分は古墳時代。
実はこれには補足が必要。いわゆる記紀(古事記日本書紀)においてこの成務天皇の事はほとんど書かれていない。成務天皇が書かれているのは西暦800年から900年の間に書かれた『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)に建島松の命をはじめ国造りを派遣した記述があってこれをもとに天草でも伝えていた。
この『先代旧事本紀』は江戸時代の国学者本居宣長らに偽書と認定されており、作り話の可能性がある。
ここからは想像の域。成務天皇の父12代景行天皇には八十人の皇子女がいてそれぞれ国司や郡司に任命された事は記紀に記載有。これはおそらく間違いがなく国造りには時間がかかるので景行天皇が派遣してその子・成務天皇も続けて事業を行ったのかもしれない。記紀の編纂の後年につじつまを合わせるため先代旧事本紀で国造りを記述したのではないか。建島松の命が実在したとも言えないし、していないとも言えない。江戸時代に否定されたにも関わらず昭和になって教科書に書いた理由もおそらく戦争真っただ中なので国民の心をまとめる為行き過ぎた国家神道だったのかとは少しは思いますが、この時代に天草が認識されていて日本に組み込まれた事は間違いないと思うので問題はない。今後の歴史研究を待つ。
後日追記:古事記を再度見返してみると、九州南部は12代景行天皇時に平定。14代仲哀(ちゅうあい)天皇時に九州北部の反対勢力を討伐に出発しその後、神功(じんぐう)皇后が引継ぎ平定され九州が統一されていた。ということは12代と14代の間で日本に組み込まれたで間違いない。現在この九州統一は正式な年号は確定されていないが3世紀後半から4世紀前半(西暦350年から450年までの間)だと言われている。
そして「奈良時代肥の国の一郡となり」奈良時代とはいわゆる710年なんと立派な平城京から794年なくよウグイス平安京までの時代で大宝律令により律令国家で区分を統一され時に肥の国(熊本)に含まれたという事だろう。
そしてそれから長い年月が過ぎ古を伝えて今でも純情素朴な島だと。令和になってもそうだと思います。
「人口20余万人、戸数3万5千余戸、61ケ村。
米年産14万石。甘藷(さつまいも)や水産(漁業)、繭(蚕・絹)、陶石やグリンピース、無煙炭、木炭が主要産物だった。
四面環海の本郡は良き湊湾にも恵まれて、牛深・崎津・富岡や鬼池・本渡・大門は中でも著名でございます。」
第一章はここまで。次回へ続く。
明治期でいえばもちろん幕末を生きていた方々が書いたり語り継いでいたりしているわけで、今の現在まで残っていない話も多い。もちろん大正期の書物も明治期の事は経験してるわけで今よりも信ぴょう性が高いものが書かれていると思っている。読むのが楽しくて仕方ない。
こっちのブログではそちらの中身を部分公開しながら解説補足を残していこうと思う。

まずこの天草読本昭和16年9月1日発行のものから。
日本の時代背景としては昭和12年に支那事変が起こり大東亜戦争がはじまり、16年の12月にいわゆる真珠湾攻撃の太平洋戦争が始まる。その慌ただしい時代の天草の地理歴史を教える中学年用の教科書のようなものである。
冒頭に天草の成り立ちで始まる。抜粋転載する。
「遠き神代の天草は、天の両屋(ふたや)と呼びなされ建島松の命こそ、国造りとして在せしが、奈良朝時代肥の国の一郡となり、その後は、星霜(せいそう)流れて幾變遷(いくへんせん)、古風を傳(つた)えて今も尚(なお)、純情素朴な島でございます。」
天の両屋とはたぶん天草上島と下島のことかな。確かこれは古事記に書いてあったと思う。
建島松の命とは成務天皇の子(皇子)天草最初の国造りとなられた方。成務天皇とのことなので初代神武天皇からすると13代の天皇ですね。わかりやすい時代区分は古墳時代。
実はこれには補足が必要。いわゆる記紀(古事記日本書紀)においてこの成務天皇の事はほとんど書かれていない。成務天皇が書かれているのは西暦800年から900年の間に書かれた『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)に建島松の命をはじめ国造りを派遣した記述があってこれをもとに天草でも伝えていた。
この『先代旧事本紀』は江戸時代の国学者本居宣長らに偽書と認定されており、作り話の可能性がある。
ここからは想像の域。成務天皇の父12代景行天皇には八十人の皇子女がいてそれぞれ国司や郡司に任命された事は記紀に記載有。これはおそらく間違いがなく国造りには時間がかかるので景行天皇が派遣してその子・成務天皇も続けて事業を行ったのかもしれない。記紀の編纂の後年につじつまを合わせるため先代旧事本紀で国造りを記述したのではないか。建島松の命が実在したとも言えないし、していないとも言えない。江戸時代に否定されたにも関わらず昭和になって教科書に書いた理由もおそらく戦争真っただ中なので国民の心をまとめる為行き過ぎた国家神道だったのかとは少しは思いますが、この時代に天草が認識されていて日本に組み込まれた事は間違いないと思うので問題はない。今後の歴史研究を待つ。
後日追記:古事記を再度見返してみると、九州南部は12代景行天皇時に平定。14代仲哀(ちゅうあい)天皇時に九州北部の反対勢力を討伐に出発しその後、神功(じんぐう)皇后が引継ぎ平定され九州が統一されていた。ということは12代と14代の間で日本に組み込まれたで間違いない。現在この九州統一は正式な年号は確定されていないが3世紀後半から4世紀前半(西暦350年から450年までの間)だと言われている。
そして「奈良時代肥の国の一郡となり」奈良時代とはいわゆる710年なんと立派な平城京から794年なくよウグイス平安京までの時代で大宝律令により律令国家で区分を統一され時に肥の国(熊本)に含まれたという事だろう。
そしてそれから長い年月が過ぎ古を伝えて今でも純情素朴な島だと。令和になってもそうだと思います。
「人口20余万人、戸数3万5千余戸、61ケ村。
米年産14万石。甘藷(さつまいも)や水産(漁業)、繭(蚕・絹)、陶石やグリンピース、無煙炭、木炭が主要産物だった。
四面環海の本郡は良き湊湾にも恵まれて、牛深・崎津・富岡や鬼池・本渡・大門は中でも著名でございます。」
第一章はここまで。次回へ続く。