2013年07月10日
藤田嗣治論
私は印象派の絵画が好きだ。
正確には好きだったとでも言うべきか。
しかしこれには嫌いになったという否定的な意味は含めていません。今でももちろん大好きなのですが、それ以上に好きな絵画があるということだ。今回はそれに関係するお話。
学生時代印象派の展覧会を見る機会があった。モネやドガ、ルノワールやセザンヌなどと言えばわかりやすいだろうか、同じく大好きな方も多いでしょう。
そのときの色鮮やかなキャンバスの衝撃は今でも覚えています。それまで描かれていた光と影の写実的な絵画ではなく、光を多用することによる言わばリアリティを追求しないでもいいんだという世界的な流れがその時代にはあったそうだ。
そういう世界的な流れのまっただ中、1910年頃の日本の美術界はヨーロッパのその印象派の画風を好みそれが主流になっていた。
こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!
私がある画家に興味を持ったとある本がある。その本に出てくる主人公の画家はフィクションではあるけれど、公表はされていませんがモデルとなっている画家が誰なのかは私にはわかっていた。その作家が憧れ尊敬してやまない画家はどういう人なのだろうというのが最初のきっかけだった。
その画家はもうすでに亡くなってらっしゃる方で、その作品群に私も魅了されいろんな画集を集めた。
もったいつけないでそろそろお名前を出しますか、笑。
その画家の名前は藤田嗣治。
またの名をレオナール・フジタ。
あれ?最近どこかで聞かれたり目にしたりされました!?
そうです。ただいま県立美術館でレオナール・フジタとパリという展覧会が先週より開催されているのです。
早速行ってきましたので感想とご紹介の方を。藤田嗣治の詳しいことは私は専門家でもないので他のサイトや書籍でお調べ下さい。
ここはわたしのブログということで私の勝手な妄想wや私の目から見える、見えた藤田嗣治をかきたいと思うのです。毎度のこと批判もある方もいらっしゃると思いますが、でもそこまで考えて見たほうが絶対おもしろいから何のしがらみのない私が好き勝手書きますのでその点ご理解されてこの先読まれて下さい。
お話を戻しまして1910年頃の日本は印象派の流れを受けていた。当時藤田は東京芸大に在籍していたが印象派の画風を嫌っていた。その理由は現存する表現方法ではダメで新しいことをしたいという世間への反発であった。作品とは無縁の立ち振舞や人となりだけを見て、純粋に作品だけを見て評価しない日本の画壇やその日本社会へ対する不満を多く持っていたためだった。
この時の芸大の藤田の講師に黒田清輝という日本画壇には説明不要の画家がいるがその黒田清輝の門下生となりながらも師匠とは違う方向を藤田は見ていた。
黒田清輝がどんな絵を描いているのかよくわからないという人はこの湖畔という作品を見るとすぐわかると思います。

教科書なんかで見たことない人はいないと思いますので。
日本画壇の第一人者であった黒田清輝は悪い見本としてしばしば藤田の作品を罵る。もう少しわかりやすく説明しますと、印象派の流れが流行っていた日本は黒田清輝を筆頭に、光に溢れた世界に人物などを描くことが主流になっていて黒を使うということを悪としていた。黒で描くところを紫で描くなど鮮やかに表現していた。そういう教えをしていたはずなのに門下生の藤田はその黒をふんだんに使ったのだ。師匠に楯突いていたのですね、嫌われるわけです。そして黒田は日本画壇では圧倒的な力を持っていたので藤田の作品は日本では何一つ評価を受けることはなかったのです。不遇の時代ですね。
その圧力に屈したのかその後父の勧めによりフランスを中心に海外に拠点を変える。
芸術の都パリに美術を学びに行くのだ。
このフランスでみなさんご存知世界の画家たちピカソやモディリアーニ、キスリングやスーティンらと知り合い同時期に活動する。ここで精力的に活動した藤田は数々の展覧会で受賞し世界で認められいわゆるパリ派、エコール・ド・パリの一員と認められるのである。
その間、第一次世界大戦など戦争の時代が訪れる。
日本へ戻ってきていて、父親が陸軍軍医であったためであろう陸軍から戦争画の依頼を受ける。乗り気はしてなかったが戦死した部下の霊を慰めるためだと熱い想いの陸軍中将の頼みに共感して戦争画を複数制作することになる。
これは戦時中の日本の士気を上げることに多大なる影響を与えたのであった。
藤田はやっと自分も日本で認められたのだと思ったのかもしれない。
だが日本が敗戦しGHQが日本を動かしてる中、戦争画ヘも戦争責任追及が及ぶ。手のひらを返したように藤田はまた日本から迫害を受けるのだ。
この事が発端でしょう。日本で定住しようと思っていたそうですが、またフランスへ渡ります。
フランスでの生活の数年後フランス国籍を取得。ランスのノートルダム大聖堂により改名を受ける。
レオナール・フジタの誕生である。
そして1968年81歳で亡くなる寸前までキリスト教の宗教画などを制作。
というのが藤田嗣治の生涯なのですけど、正直何が凄いのかわからないという方が多いと思います。その原因がなぜかもわかっています。
これまでは簡単な説明でした。これから後半私の思う藤田嗣治像を今回の県美の展覧会の見どころと合わせて書きます。ここから先を読んで貰いたいです。
東京芸大時代師匠である黒田清輝に作品を罵られたと書きました。
なぜ叩かれたのかとかなぜ反発したのかとかは書きました。ですがそれはどこにでも書いてあるような表面的な事で当たり障りない論評です。もう一歩踏み込みます。
だって作品を見て感じるんだもん。
藤田は日本の美術が西洋に負けている評価をされているのがたまらなく嫌だったのではないでしょうか?印象派の真似ごとをするだけではいつまでたっても日本の美術は海外に追いつかない。
早くそこから脱却したいけどまだ画風が見つけ出せず藤田自身も手探りで焦っていた。
このままではダメだって思いながらも政治的な圧力や日本の体勢に反対して闇雲にもがく。その気持ち溢れる卒業制作の一品。今回来てますよ。こちら。

実際その目で見て貰いたいので画像は小さくしてます。
今回の展示には大きく分けて3つの部屋があります。
一つ目の部屋入口入ってすぐの辺りにあります。これすごい重要な作品だからこの絵に込められた想いを感じなから見て。
そして画風を模索する若い藤田の絵が並びます。ここではやはりモディリアーニと一緒に活動してたんだなってはっきりわかる作品がたくさんあります。
2つ目の部屋へ入ると黄金期です。
あの「偉大なる乳白色の下地」を確立した作品が多数展示されています。
もちろん「横たわる裸婦」など言うまでもない素晴らしい作品はここでは置いておきます。
わたしはそれと同じぐらい重要視してる作品が他にもありますのでそちらを紹介。
「ポーズの合間に休むキキ」
藤田は人の真似をするのが嫌いだみたいに書きましたが、実はそうではないのです。
すべてを真似することが嫌いで、いろんな人のいいと思ったものを吸収してそれに自分なりの何かを付随するといういわゆるオマージュとでもいいましょうか、実はそういう作品が多いのです。
一見、日本にいた時の黒田清輝に楯突いたときと矛盾しているようにも思えますが、それと区別して真似だと言われないためなのでしょうか、自分しかやっていない描き方を考案するのです。
それが「偉大なる乳白色の下地」なのではないのか。
それが自分のパターンであり、その藤田にしかできないパターンに自分が見て来た先人の素晴らしいところを重ねてみたということがわかる。
ポーズの合間に休むキキは鉛筆画で後にキャンバスに清書でもしようと考えていたんだと思いますが、その清書したものは発見されておりません。だけどその作品からわかるものはやはりあのモナリザではありませんか。
ルーブル美術館にいろんな作品を模写しに週3日も通ったことがあると妻への手紙などからわかっています。
藤田が一番憧れたダヴィンチに近づこうとして描いた作品なんだって思う。
後でなぜこの絵が重要かということをもう少し描きたいと思います。
その他に重要なのは藤田は自画像を多数書いてます。静物画もそうですが、藤田の周りにある小物などにも目を配って下さい。その小物がなぜあるのかとかどういう意味があるのかとか考えながら見るとそこから何か見えてくるものがあります。
2つ目の部屋はその他にも、妻に宛てたおもしろいはがき絵が多数公開されてます。
これは完全なプライベート作品で名だたる画家の作品を完全に模倣した作品になっております。
ルノワールやゴーギャンやマティスローランサンなどなど実にうまく表現を掴んでいます。元ネタを知っていたら笑えるものまで、ほんとニヤニヤしながら見ましたよ、笑い声が出ちゃいそうになるぐらい。でもね、一緒に活動してたピカソのを真似した作品が無いのです。
これも私の勝手な妄想ですけど、藤田とピカソはお互いに親交はあった仲も良かった、だけど心の奥底ではお互いをライバル視していたのではないか。
ライバルのピカソの絵を真似するのがシャクだったのではないのかな?そういう感じがしてならない。
この2つ目の部屋にはまだまだ素晴らしい作品があって全部紹介できないですね。もちろん今回の展覧会の代表作である裸婦の絵もありますし、その後ピカソを意識して描いた絵もあります。
その絵はもちろんフランスで受賞するのですが、その展覧会でピカソが3時間もその絵を眺めたという逸話が残っている作品もあります。
そして3つ目の部屋に藤田と親交があった有名な画家の作品も多数来ています。同じ景色を見て同じ環境で考え描いたその作品を通してまた藤田嗣治を感じて貰いたいです。
なにげにモディリアーニの彫刻とか来てますよ。これがメインでも展覧会できるでしょーみんな素通りしてましたけどw
まぁその辺りもすごかったです、今回の展示。お昼過ぎから行きましたけど5時15分ぎりぎりまでいました。4時間?最後駆け足になりそうなくらい時間が足りなかった。これだけの作品があったらそうなるのはわかるでしょ?
藤田嗣治は日本のピカソだ!っていう人もいます。
いやいやいや私はそう思いません。ライバル視していた相手と同じだなんて本人が聞いたらどう思うでしょう。嫌なはずです。
では誰だと表現するのが望ましいかという事なんですけど。
フランス国籍を取得した後の洗礼名に注目していただきたい。
洗礼名ということでその名前は藤田自身が決めたものではありません。
「レオナール・フジタ」アルファベットで表記すれば「Leonard Foujita」
お気付きでしょうか?そう、イタリア発音をすればレオナルドである。
世界はレオナルド・ダ・ヴィンチのレオナルドをもちろんダ・ヴィンチに憧れてるのを知ってて藤田嗣治に与えたのだ。
ゆえに藤田嗣治は日本のダ・ヴィンチなんだとわたしは思っている。
藤田嗣治は海外では葛飾北斎と並ぶ有名な画家であるにもかかわらず、日本では北斎ほど知ってる方はいません。
これから先書くことは今まで言われて来ませんでした。本当かどうかっていうのも読んだ方の個人的な解釈として判断して下さい。
藤田嗣治もまた教科書などでご存知の方が多いと思うといろんなところで書かれていた。だけど少なくとも私の習ってきた学校教育の美術の教科書ではその名前は聞いたことがなかった。
ちょっと今の教科書も開隆堂、光村図書、日本文教と主要3つ調べてみた。さすがにすべてを見たわけではないので正確ではありませんが、探した中では一つも探せなかった。載ってなかったし歴史年表にも藤田嗣治の名はなかった。
これはおかしすぎる。こういうことには大抵大人の事情が働いている。
予想は簡単、上記した黒田清輝一門の圧力かGHQ、日教組の戦後教育か、またそのどちらもだということ。
もうこういうのやめにしません?
いいものはいいってちゃんと評価しましょうよ。
藤田嗣治の作品を見てみると一貫して伝わることがある。ここから今回私の一番言いたいこと。そしてそれを感じて作品を見てほしいということ。
日本のことを考え日本の画壇に反発した卒業制作の自画像。
フランスに渡りながらもモチーフはフランス人かも知れないが描き方は油絵を使った日本画であること。
自画像の中に散りばめられたすずりなどや面相筆、そして極めつけ菊花紋章(天皇家)などの日本を思わせるもの。
6年間共に暮らしてモデルとして描いたフランス人リュシーバドゥーを日本名でユキと呼んだ。
戦争画を書いて戦死した方達への慰霊の想い。そして戦争責任を他に戦争画を描いている画家はたくさんいたのにもかかわらず一人で責任を負って日本を離れたこと。
その他いろいろあると思いますがこれらからでも伝わるものありませんか?
そう日本への愛国心です。一貫して日本への愛のカタチを表現してるじゃないですか。フランスに渡った多くの画家がフランスの町並みは描けど、日本を表す物をフランスで描いたりしましたか?ないない。こんな日本を愛してる画家はいないでしょ。
でも結局日本を捨ててフランス国籍とったじゃない!?って言います?
フランス国籍をとった後、藤田は家族にこう言ったと記録が残っています。
「日本を捨てたのではなく日本に捨てられた」のだと
こんなに日本のことを愛して、日本のことを考え日本のために絵を描いた画家に対して日本がやったことは酷い。
日本を捨てたのではなく日本への当て付けにフランス人へなったのではないか。もし日本が見捨てないでいたら日本で日本の素晴らしい作品を残してくれたのではないのだろうかと残念でならない。
このことを思ってその負の連鎖のはじまりである卒業制作の自画像を見たとき息ができなかった。その力強い反発してる目を見て涙をこらえるのに必死だった。
藤田嗣治様
安心して下さい。
あなたが捨てられたと思った日本では、現代あなたのことを素晴らしい画家だったと尊敬してやまない人たちがたくさんいます。見捨ててなんかいません。ほんと戻ってきて欲しいのです。
藤田嗣治の企画展示をする美術館関係者の方へ
今回はフランスにいた時期に焦点を当てた企画で藤田嗣治がどのようにしてアイデンティティの確立をしていったのかといことをテーマにしていたということはわかります。それは臭いものには蓋をして大衆受けがいいようにということはありませんか?
そして展示会の表題「レオナール・フジタとパリ」だったですけど、パリにいた時代ということでそういう題名だと思うし海外ではその名前で通ってるし、フランス国籍をとったからとか、上記したようにダヴィンチに憧れていたのでそのようにしたのかとかいろいろ思い当たりはします。
だけど、日本をこんなに愛した画家をこれ以上突き放すのですか?
そのパリで活躍した時代はまだ日本人だし、なにより日本がしたことを反省しきちんと評価して日本人名で表題を付けましょうよ。
ここは日本ですよ。世界でどう呼ばれてるとかはどうでもいい。
「藤田嗣治と巴里展」でしょ。
今回見た藤田嗣治自身が描いたサインの中にもたくさん巴里って描いてあった。その意味も含めて日本語表記でしょ。
絶対その方が喜ぶと思う。
そして最後にこのブログを読んでくださった方々。
みなさん足を運んで藤田嗣治と巴里展見に行きましょ。
日本人の一番素晴らしい絵が来てるんですよ。美術を志す若者にもそう、そういうことには関係ない人にも日本人として藤田嗣治を見て貰いたい。
余談ですが、
会場でレコーダーでの説明の機材の貸出とか500円でありますが、あんなのは必要ありません。私聞いてみましたけど大した説明してないですし、ほぼ同じ事文字で絵の横に書いて説明してありますし、なにより説明文とレコーダーの説明してる年号とか間違い数カ所あったし、よくわからないならわざわざ説明するなって言いたかったよ。こんないい加減な展覧会ですけど、作品は一流なんです。
だから作品だけ見に来て。一生のうちおそらく二度ともうこれだけ一緒には見れないから。
正確には好きだったとでも言うべきか。
しかしこれには嫌いになったという否定的な意味は含めていません。今でももちろん大好きなのですが、それ以上に好きな絵画があるということだ。今回はそれに関係するお話。
学生時代印象派の展覧会を見る機会があった。モネやドガ、ルノワールやセザンヌなどと言えばわかりやすいだろうか、同じく大好きな方も多いでしょう。
そのときの色鮮やかなキャンバスの衝撃は今でも覚えています。それまで描かれていた光と影の写実的な絵画ではなく、光を多用することによる言わばリアリティを追求しないでもいいんだという世界的な流れがその時代にはあったそうだ。
そういう世界的な流れのまっただ中、1910年頃の日本の美術界はヨーロッパのその印象派の画風を好みそれが主流になっていた。
こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!
私がある画家に興味を持ったとある本がある。その本に出てくる主人公の画家はフィクションではあるけれど、公表はされていませんがモデルとなっている画家が誰なのかは私にはわかっていた。その作家が憧れ尊敬してやまない画家はどういう人なのだろうというのが最初のきっかけだった。
その画家はもうすでに亡くなってらっしゃる方で、その作品群に私も魅了されいろんな画集を集めた。
もったいつけないでそろそろお名前を出しますか、笑。
その画家の名前は藤田嗣治。
またの名をレオナール・フジタ。
あれ?最近どこかで聞かれたり目にしたりされました!?
そうです。ただいま県立美術館でレオナール・フジタとパリという展覧会が先週より開催されているのです。
早速行ってきましたので感想とご紹介の方を。藤田嗣治の詳しいことは私は専門家でもないので他のサイトや書籍でお調べ下さい。
ここはわたしのブログということで私の勝手な妄想wや私の目から見える、見えた藤田嗣治をかきたいと思うのです。毎度のこと批判もある方もいらっしゃると思いますが、でもそこまで考えて見たほうが絶対おもしろいから何のしがらみのない私が好き勝手書きますのでその点ご理解されてこの先読まれて下さい。
お話を戻しまして1910年頃の日本は印象派の流れを受けていた。当時藤田は東京芸大に在籍していたが印象派の画風を嫌っていた。その理由は現存する表現方法ではダメで新しいことをしたいという世間への反発であった。作品とは無縁の立ち振舞や人となりだけを見て、純粋に作品だけを見て評価しない日本の画壇やその日本社会へ対する不満を多く持っていたためだった。
この時の芸大の藤田の講師に黒田清輝という日本画壇には説明不要の画家がいるがその黒田清輝の門下生となりながらも師匠とは違う方向を藤田は見ていた。
黒田清輝がどんな絵を描いているのかよくわからないという人はこの湖畔という作品を見るとすぐわかると思います。

教科書なんかで見たことない人はいないと思いますので。
日本画壇の第一人者であった黒田清輝は悪い見本としてしばしば藤田の作品を罵る。もう少しわかりやすく説明しますと、印象派の流れが流行っていた日本は黒田清輝を筆頭に、光に溢れた世界に人物などを描くことが主流になっていて黒を使うということを悪としていた。黒で描くところを紫で描くなど鮮やかに表現していた。そういう教えをしていたはずなのに門下生の藤田はその黒をふんだんに使ったのだ。師匠に楯突いていたのですね、嫌われるわけです。そして黒田は日本画壇では圧倒的な力を持っていたので藤田の作品は日本では何一つ評価を受けることはなかったのです。不遇の時代ですね。
その圧力に屈したのかその後父の勧めによりフランスを中心に海外に拠点を変える。
芸術の都パリに美術を学びに行くのだ。
このフランスでみなさんご存知世界の画家たちピカソやモディリアーニ、キスリングやスーティンらと知り合い同時期に活動する。ここで精力的に活動した藤田は数々の展覧会で受賞し世界で認められいわゆるパリ派、エコール・ド・パリの一員と認められるのである。
その間、第一次世界大戦など戦争の時代が訪れる。
日本へ戻ってきていて、父親が陸軍軍医であったためであろう陸軍から戦争画の依頼を受ける。乗り気はしてなかったが戦死した部下の霊を慰めるためだと熱い想いの陸軍中将の頼みに共感して戦争画を複数制作することになる。
これは戦時中の日本の士気を上げることに多大なる影響を与えたのであった。
藤田はやっと自分も日本で認められたのだと思ったのかもしれない。
だが日本が敗戦しGHQが日本を動かしてる中、戦争画ヘも戦争責任追及が及ぶ。手のひらを返したように藤田はまた日本から迫害を受けるのだ。
この事が発端でしょう。日本で定住しようと思っていたそうですが、またフランスへ渡ります。
フランスでの生活の数年後フランス国籍を取得。ランスのノートルダム大聖堂により改名を受ける。
レオナール・フジタの誕生である。
そして1968年81歳で亡くなる寸前までキリスト教の宗教画などを制作。
というのが藤田嗣治の生涯なのですけど、正直何が凄いのかわからないという方が多いと思います。その原因がなぜかもわかっています。
これまでは簡単な説明でした。これから後半私の思う藤田嗣治像を今回の県美の展覧会の見どころと合わせて書きます。ここから先を読んで貰いたいです。
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東京芸大時代師匠である黒田清輝に作品を罵られたと書きました。
なぜ叩かれたのかとかなぜ反発したのかとかは書きました。ですがそれはどこにでも書いてあるような表面的な事で当たり障りない論評です。もう一歩踏み込みます。
だって作品を見て感じるんだもん。
藤田は日本の美術が西洋に負けている評価をされているのがたまらなく嫌だったのではないでしょうか?印象派の真似ごとをするだけではいつまでたっても日本の美術は海外に追いつかない。
早くそこから脱却したいけどまだ画風が見つけ出せず藤田自身も手探りで焦っていた。
このままではダメだって思いながらも政治的な圧力や日本の体勢に反対して闇雲にもがく。その気持ち溢れる卒業制作の一品。今回来てますよ。こちら。

実際その目で見て貰いたいので画像は小さくしてます。
今回の展示には大きく分けて3つの部屋があります。
一つ目の部屋入口入ってすぐの辺りにあります。これすごい重要な作品だからこの絵に込められた想いを感じなから見て。
そして画風を模索する若い藤田の絵が並びます。ここではやはりモディリアーニと一緒に活動してたんだなってはっきりわかる作品がたくさんあります。
2つ目の部屋へ入ると黄金期です。
あの「偉大なる乳白色の下地」を確立した作品が多数展示されています。
もちろん「横たわる裸婦」など言うまでもない素晴らしい作品はここでは置いておきます。
わたしはそれと同じぐらい重要視してる作品が他にもありますのでそちらを紹介。
「ポーズの合間に休むキキ」
藤田は人の真似をするのが嫌いだみたいに書きましたが、実はそうではないのです。
すべてを真似することが嫌いで、いろんな人のいいと思ったものを吸収してそれに自分なりの何かを付随するといういわゆるオマージュとでもいいましょうか、実はそういう作品が多いのです。
一見、日本にいた時の黒田清輝に楯突いたときと矛盾しているようにも思えますが、それと区別して真似だと言われないためなのでしょうか、自分しかやっていない描き方を考案するのです。
それが「偉大なる乳白色の下地」なのではないのか。
それが自分のパターンであり、その藤田にしかできないパターンに自分が見て来た先人の素晴らしいところを重ねてみたということがわかる。
ポーズの合間に休むキキは鉛筆画で後にキャンバスに清書でもしようと考えていたんだと思いますが、その清書したものは発見されておりません。だけどその作品からわかるものはやはりあのモナリザではありませんか。
ルーブル美術館にいろんな作品を模写しに週3日も通ったことがあると妻への手紙などからわかっています。
藤田が一番憧れたダヴィンチに近づこうとして描いた作品なんだって思う。
後でなぜこの絵が重要かということをもう少し描きたいと思います。
その他に重要なのは藤田は自画像を多数書いてます。静物画もそうですが、藤田の周りにある小物などにも目を配って下さい。その小物がなぜあるのかとかどういう意味があるのかとか考えながら見るとそこから何か見えてくるものがあります。
2つ目の部屋はその他にも、妻に宛てたおもしろいはがき絵が多数公開されてます。
これは完全なプライベート作品で名だたる画家の作品を完全に模倣した作品になっております。
ルノワールやゴーギャンやマティスローランサンなどなど実にうまく表現を掴んでいます。元ネタを知っていたら笑えるものまで、ほんとニヤニヤしながら見ましたよ、笑い声が出ちゃいそうになるぐらい。でもね、一緒に活動してたピカソのを真似した作品が無いのです。
これも私の勝手な妄想ですけど、藤田とピカソはお互いに親交はあった仲も良かった、だけど心の奥底ではお互いをライバル視していたのではないか。
ライバルのピカソの絵を真似するのがシャクだったのではないのかな?そういう感じがしてならない。
この2つ目の部屋にはまだまだ素晴らしい作品があって全部紹介できないですね。もちろん今回の展覧会の代表作である裸婦の絵もありますし、その後ピカソを意識して描いた絵もあります。
その絵はもちろんフランスで受賞するのですが、その展覧会でピカソが3時間もその絵を眺めたという逸話が残っている作品もあります。
そして3つ目の部屋に藤田と親交があった有名な画家の作品も多数来ています。同じ景色を見て同じ環境で考え描いたその作品を通してまた藤田嗣治を感じて貰いたいです。
なにげにモディリアーニの彫刻とか来てますよ。これがメインでも展覧会できるでしょーみんな素通りしてましたけどw
まぁその辺りもすごかったです、今回の展示。お昼過ぎから行きましたけど5時15分ぎりぎりまでいました。4時間?最後駆け足になりそうなくらい時間が足りなかった。これだけの作品があったらそうなるのはわかるでしょ?
藤田嗣治は日本のピカソだ!っていう人もいます。
いやいやいや私はそう思いません。ライバル視していた相手と同じだなんて本人が聞いたらどう思うでしょう。嫌なはずです。
では誰だと表現するのが望ましいかという事なんですけど。
フランス国籍を取得した後の洗礼名に注目していただきたい。
洗礼名ということでその名前は藤田自身が決めたものではありません。
「レオナール・フジタ」アルファベットで表記すれば「Leonard Foujita」
お気付きでしょうか?そう、イタリア発音をすればレオナルドである。
世界はレオナルド・ダ・ヴィンチのレオナルドをもちろんダ・ヴィンチに憧れてるのを知ってて藤田嗣治に与えたのだ。
ゆえに藤田嗣治は日本のダ・ヴィンチなんだとわたしは思っている。
藤田嗣治は海外では葛飾北斎と並ぶ有名な画家であるにもかかわらず、日本では北斎ほど知ってる方はいません。
これから先書くことは今まで言われて来ませんでした。本当かどうかっていうのも読んだ方の個人的な解釈として判断して下さい。
藤田嗣治もまた教科書などでご存知の方が多いと思うといろんなところで書かれていた。だけど少なくとも私の習ってきた学校教育の美術の教科書ではその名前は聞いたことがなかった。
ちょっと今の教科書も開隆堂、光村図書、日本文教と主要3つ調べてみた。さすがにすべてを見たわけではないので正確ではありませんが、探した中では一つも探せなかった。載ってなかったし歴史年表にも藤田嗣治の名はなかった。
これはおかしすぎる。こういうことには大抵大人の事情が働いている。
予想は簡単、上記した黒田清輝一門の圧力かGHQ、日教組の戦後教育か、またそのどちらもだということ。
もうこういうのやめにしません?
いいものはいいってちゃんと評価しましょうよ。
藤田嗣治の作品を見てみると一貫して伝わることがある。ここから今回私の一番言いたいこと。そしてそれを感じて作品を見てほしいということ。
日本のことを考え日本の画壇に反発した卒業制作の自画像。
フランスに渡りながらもモチーフはフランス人かも知れないが描き方は油絵を使った日本画であること。
自画像の中に散りばめられたすずりなどや面相筆、そして極めつけ菊花紋章(天皇家)などの日本を思わせるもの。
6年間共に暮らしてモデルとして描いたフランス人リュシーバドゥーを日本名でユキと呼んだ。
戦争画を書いて戦死した方達への慰霊の想い。そして戦争責任を他に戦争画を描いている画家はたくさんいたのにもかかわらず一人で責任を負って日本を離れたこと。
その他いろいろあると思いますがこれらからでも伝わるものありませんか?
そう日本への愛国心です。一貫して日本への愛のカタチを表現してるじゃないですか。フランスに渡った多くの画家がフランスの町並みは描けど、日本を表す物をフランスで描いたりしましたか?ないない。こんな日本を愛してる画家はいないでしょ。
でも結局日本を捨ててフランス国籍とったじゃない!?って言います?
フランス国籍をとった後、藤田は家族にこう言ったと記録が残っています。
「日本を捨てたのではなく日本に捨てられた」のだと
こんなに日本のことを愛して、日本のことを考え日本のために絵を描いた画家に対して日本がやったことは酷い。
日本を捨てたのではなく日本への当て付けにフランス人へなったのではないか。もし日本が見捨てないでいたら日本で日本の素晴らしい作品を残してくれたのではないのだろうかと残念でならない。
このことを思ってその負の連鎖のはじまりである卒業制作の自画像を見たとき息ができなかった。その力強い反発してる目を見て涙をこらえるのに必死だった。
藤田嗣治様
安心して下さい。
あなたが捨てられたと思った日本では、現代あなたのことを素晴らしい画家だったと尊敬してやまない人たちがたくさんいます。見捨ててなんかいません。ほんと戻ってきて欲しいのです。
藤田嗣治の企画展示をする美術館関係者の方へ
今回はフランスにいた時期に焦点を当てた企画で藤田嗣治がどのようにしてアイデンティティの確立をしていったのかといことをテーマにしていたということはわかります。それは臭いものには蓋をして大衆受けがいいようにということはありませんか?
そして展示会の表題「レオナール・フジタとパリ」だったですけど、パリにいた時代ということでそういう題名だと思うし海外ではその名前で通ってるし、フランス国籍をとったからとか、上記したようにダヴィンチに憧れていたのでそのようにしたのかとかいろいろ思い当たりはします。
だけど、日本をこんなに愛した画家をこれ以上突き放すのですか?
そのパリで活躍した時代はまだ日本人だし、なにより日本がしたことを反省しきちんと評価して日本人名で表題を付けましょうよ。
ここは日本ですよ。世界でどう呼ばれてるとかはどうでもいい。
「藤田嗣治と巴里展」でしょ。
今回見た藤田嗣治自身が描いたサインの中にもたくさん巴里って描いてあった。その意味も含めて日本語表記でしょ。
絶対その方が喜ぶと思う。
そして最後にこのブログを読んでくださった方々。
みなさん足を運んで藤田嗣治と巴里展見に行きましょ。
日本人の一番素晴らしい絵が来てるんですよ。美術を志す若者にもそう、そういうことには関係ない人にも日本人として藤田嗣治を見て貰いたい。
余談ですが、
会場でレコーダーでの説明の機材の貸出とか500円でありますが、あんなのは必要ありません。私聞いてみましたけど大した説明してないですし、ほぼ同じ事文字で絵の横に書いて説明してありますし、なにより説明文とレコーダーの説明してる年号とか間違い数カ所あったし、よくわからないならわざわざ説明するなって言いたかったよ。こんないい加減な展覧会ですけど、作品は一流なんです。
だから作品だけ見に来て。一生のうちおそらく二度ともうこれだけ一緒には見れないから。