2014年04月16日
空と瀬崎の間にはー牛深第七景その1
時代は江戸。
天草は天領となり1641年初代代官、鈴木重成が富岡にやってきた。
天草の122ヶ村を10組に分け、組に大庄屋を置き村に庄屋を定めました。
牛深に関しては大庄屋は久玉の中原家であり久玉組七ヶ村の一つ牛深村は庄屋長岡家が務めた。
武士とその他農民には上下関係があったが、農民であるこの大庄屋には苗字帯刀、庄屋には苗字が許された。
この庄屋とは今でいう役場のことだ。当時はそういう言葉が無かったため役座と呼んでいたそうだ。なのでそれを務めた大庄屋さんや庄屋さんは今の町長さんや村長さんと言えばわかりやすいと思う。
あぁあぁ、面白い。
歴史の教科書で読んでて日本の事だとわかってはいても現実味がなく、どこか中央でしか行われていない出来事の様に思っていたことが牛深でも実際あっていたという歴史を目の当たりにする。
もっともっと勉強したこと詳しく書きたいけど、その面白い時代の詳しいことは八景が終わってから御番所編でということでこれぐらいにして今回は牛深第七景です。
こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!
場所はどこを描いたのかと言いますと、その庄屋がありました『瀬崎』です。
江戸時代の牛深瀬崎の絵(原画長崎県立図書館)

昭和6年牛深瀬崎の絵(原画海彩館)

この二つの絵ではっきりと庄屋または役場の場所がわかると思います。
江戸時代に置いて牛深は、かこ役(水夫、漁業権を持っている)が天草で一番多かった。
そして昭和初期に至っては牛深は日本一の漁港とこれを描いた鳥瞰絵師も謳ったほどである。
*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.
資料がたくさん集まってしまいましたので、今回も2回またぎで公開致します。
今回お見せするのは今教わっている歴史研究家の方の絵で御番所と深い関係があるのですが、その江戸時代の瀬崎の様子を描かれた絵を頂きました。(機会があるときに原画をじっくり見てもらいたいので高画質では掲載しません)

この船は唐船(中国船)なのですが、なぜ唐船が牛深に来てたのかとかその辺りは御番所編で書きます。
江戸時代にみなさんご存知の瀬崎にこういう外国船が来てて、それを見物に牛深の人が見物に集まって、海は夕日に朱色に染まるという文献が残っているそうだ。船の形、周りの船、その一艘一艘歴史に基づいて描かれていて見れば見るほど面白い。奥に見える建物は・・・当ててみてください。もうお分かりでしょうがw
それでは次回私の第七景を載せます。もうしばらくお付き合いください。
その2はこちら
天草は天領となり1641年初代代官、鈴木重成が富岡にやってきた。
天草の122ヶ村を10組に分け、組に大庄屋を置き村に庄屋を定めました。
牛深に関しては大庄屋は久玉の中原家であり久玉組七ヶ村の一つ牛深村は庄屋長岡家が務めた。
武士とその他農民には上下関係があったが、農民であるこの大庄屋には苗字帯刀、庄屋には苗字が許された。
この庄屋とは今でいう役場のことだ。当時はそういう言葉が無かったため役座と呼んでいたそうだ。なのでそれを務めた大庄屋さんや庄屋さんは今の町長さんや村長さんと言えばわかりやすいと思う。
あぁあぁ、面白い。
歴史の教科書で読んでて日本の事だとわかってはいても現実味がなく、どこか中央でしか行われていない出来事の様に思っていたことが牛深でも実際あっていたという歴史を目の当たりにする。
もっともっと勉強したこと詳しく書きたいけど、その面白い時代の詳しいことは八景が終わってから御番所編でということでこれぐらいにして今回は牛深第七景です。
こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!
場所はどこを描いたのかと言いますと、その庄屋がありました『瀬崎』です。
江戸時代の牛深瀬崎の絵(原画長崎県立図書館)

昭和6年牛深瀬崎の絵(原画海彩館)

この二つの絵ではっきりと庄屋または役場の場所がわかると思います。
江戸時代に置いて牛深は、かこ役(水夫、漁業権を持っている)が天草で一番多かった。
そして昭和初期に至っては牛深は日本一の漁港とこれを描いた鳥瞰絵師も謳ったほどである。
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資料がたくさん集まってしまいましたので、今回も2回またぎで公開致します。
今回お見せするのは今教わっている歴史研究家の方の絵で御番所と深い関係があるのですが、その江戸時代の瀬崎の様子を描かれた絵を頂きました。(機会があるときに原画をじっくり見てもらいたいので高画質では掲載しません)

この船は唐船(中国船)なのですが、なぜ唐船が牛深に来てたのかとかその辺りは御番所編で書きます。
江戸時代にみなさんご存知の瀬崎にこういう外国船が来てて、それを見物に牛深の人が見物に集まって、海は夕日に朱色に染まるという文献が残っているそうだ。船の形、周りの船、その一艘一艘歴史に基づいて描かれていて見れば見るほど面白い。奥に見える建物は・・・当ててみてください。もうお分かりでしょうがw
それでは次回私の第七景を載せます。もうしばらくお付き合いください。
その2はこちら
Posted by hirok○ at 06:21│Comments(2)
│牛深八景
この記事へのコメント
もう一つ忘れてならないのが牛深市深海町の「橋口家」です。薩摩伊集院町の
一宇治城から島津義弘公の命令で牛深の深海村へ来てます。小西行長がいた時代です。ですから豊臣政権になる数年前くらいに深海村へ来てます。彼は庄屋として配置され、1641年ごろ代官、鈴木重成就任後のちに大庄屋へと発展します。この頃、初代橋口家は元服後(16歳~20歳)の内に深海へ入りますと
年齢が77歳~81歳に当たります。資料が無いので逆算で計算するしか仮説が出せませんからね。島津家家臣団の中に伴氏族橋口家とはっきりと記録が残されておりますので、この方が深海村へ入った橋口さんで間違いないかな?と思います。ここからは資料が少ないので推測を入れて書きます。(2代目からは戸籍が残ってます)初代橋口家は最初に農地改革(薩摩角割制度)を行い年貢米の収穫を深海村、久玉村など増産させる事に成功しました。1602年に天草上島庄屋藤田家が設置されます。1607年薩摩琉球征伐の頃に琉球交易船を牛深に来てもらえる様に手配したのではないか?と思います。牛深には琉球交易船が来た記録があるみたいなので伊集院出身の橋口家なら島津に頼み、船の入港もスムーズに行えたものと思います。それによりここから牛深ドル箱経済が誕生していきます。琉球商品を他国へ売りさばき利益拡大に成功。次に交易船から伝えられたミカンや柑橘類(かんきつるい)などを栽培し成功。そこに目を付けて配置されたのが徳川方代官鈴木重成では無かったのかなー??と思います。当時の徳川がそんな甘い汁を見逃すハズないですよね(笑)天草人にとって徳川は迷惑千万なんです。あきらかに、お金取りに来てます(^-^;)これは資料が無くても判る事ですからね。(笑)
一宇治城から島津義弘公の命令で牛深の深海村へ来てます。小西行長がいた時代です。ですから豊臣政権になる数年前くらいに深海村へ来てます。彼は庄屋として配置され、1641年ごろ代官、鈴木重成就任後のちに大庄屋へと発展します。この頃、初代橋口家は元服後(16歳~20歳)の内に深海へ入りますと
年齢が77歳~81歳に当たります。資料が無いので逆算で計算するしか仮説が出せませんからね。島津家家臣団の中に伴氏族橋口家とはっきりと記録が残されておりますので、この方が深海村へ入った橋口さんで間違いないかな?と思います。ここからは資料が少ないので推測を入れて書きます。(2代目からは戸籍が残ってます)初代橋口家は最初に農地改革(薩摩角割制度)を行い年貢米の収穫を深海村、久玉村など増産させる事に成功しました。1602年に天草上島庄屋藤田家が設置されます。1607年薩摩琉球征伐の頃に琉球交易船を牛深に来てもらえる様に手配したのではないか?と思います。牛深には琉球交易船が来た記録があるみたいなので伊集院出身の橋口家なら島津に頼み、船の入港もスムーズに行えたものと思います。それによりここから牛深ドル箱経済が誕生していきます。琉球商品を他国へ売りさばき利益拡大に成功。次に交易船から伝えられたミカンや柑橘類(かんきつるい)などを栽培し成功。そこに目を付けて配置されたのが徳川方代官鈴木重成では無かったのかなー??と思います。当時の徳川がそんな甘い汁を見逃すハズないですよね(笑)天草人にとって徳川は迷惑千万なんです。あきらかに、お金取りに来てます(^-^;)これは資料が無くても判る事ですからね。(笑)
Posted by 名無しさん at 2016年06月25日 17:49
おおー、深海の方でしょうか?そうなんですよね、私も深海村庄屋橋口家は相当の重要人物だったと考えています。個人的には上田宜珍に勝るとも劣らないレベルに。 こちらのブログでは昭和をメインにしていたため江戸時代のお話は省略気味ですが、もう少し庄屋橋口家については御番所編『牛深御番所絵図 其の三十四』に橋口家庄屋文書より抜粋しておりますのでお時間ありましたらそちらもご覧になっていただけたら嬉しく思います。ちなみに私も個人的な解釈がありまして天草を天領にしたのは歴史的にみてキリスト教排除目的が強いなと思っております。詳しくは御番所考察のところでそうなる理由を書いております。歴史って仮説を立てるのとてもおもしろいですよね。私もそういう所大好きです。コメントありがとうございました。
Posted by hiroko
at 2016年06月26日 22:29

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