2020年10月03日
天草関係歴史書物語1
最近先日上げた天草読本の他にも偶然にも機会があり数冊明治期大正期の天草関係書物を手に入れた。
明治期でいえばもちろん幕末を生きていた方々が書いたり語り継いでいたりしているわけで、今の現在まで残っていない話も多い。もちろん大正期の書物も明治期の事は経験してるわけで今よりも信ぴょう性が高いものが書かれていると思っている。読むのが楽しくて仕方ない。
こっちのブログではそちらの中身を部分公開しながら解説補足を残していこうと思う。

まずこの天草読本昭和16年9月1日発行のものから。
日本の時代背景としては昭和12年に支那事変が起こり大東亜戦争がはじまり、16年の12月にいわゆる真珠湾攻撃の太平洋戦争が始まる。その慌ただしい時代の天草の地理歴史を教える中学年用の教科書のようなものである。
冒頭に天草の成り立ちで始まる。抜粋転載する。
「遠き神代の天草は、天の両屋(ふたや)と呼びなされ建島松の命こそ、国造りとして在せしが、奈良朝時代肥の国の一郡となり、その後は、星霜(せいそう)流れて幾變遷(いくへんせん)、古風を傳(つた)えて今も尚(なお)、純情素朴な島でございます。」
天の両屋とはたぶん天草上島と下島のことかな。確かこれは古事記に書いてあったと思う。
建島松の命とは成務天皇の子(皇子)天草最初の国造りとなられた方。成務天皇とのことなので初代神武天皇からすると13代の天皇ですね。わかりやすい時代区分は古墳時代。
実はこれには補足が必要。いわゆる記紀(古事記日本書紀)においてこの成務天皇の事はほとんど書かれていない。成務天皇が書かれているのは西暦800年から900年の間に書かれた『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)に建島松の命をはじめ国造りを派遣した記述があってこれをもとに天草でも伝えていた。
この『先代旧事本紀』は江戸時代の国学者本居宣長らに偽書と認定されており、作り話の可能性がある。
ここからは想像の域。成務天皇の父12代景行天皇には八十人の皇子女がいてそれぞれ国司や郡司に任命された事は記紀に記載有。これはおそらく間違いがなく国造りには時間がかかるので景行天皇が派遣してその子・成務天皇も続けて事業を行ったのかもしれない。記紀の編纂の後年につじつまを合わせるため先代旧事本紀で国造りを記述したのではないか。建島松の命が実在したとも言えないし、していないとも言えない。江戸時代に否定されたにも関わらず昭和になって教科書に書いた理由もおそらく戦争真っただ中なので国民の心をまとめる為行き過ぎた国家神道だったのかとは少しは思いますが、この時代に天草が認識されていて日本に組み込まれた事は間違いないと思うので問題はない。今後の歴史研究を待つ。
後日追記:古事記を再度見返してみると、九州南部は12代景行天皇時に平定。14代仲哀(ちゅうあい)天皇時に九州北部の反対勢力を討伐に出発しその後、神功(じんぐう)皇后が引継ぎ平定され九州が統一されていた。ということは12代と14代の間で日本に組み込まれたで間違いない。現在この九州統一は正式な年号は確定されていないが3世紀後半から4世紀前半(西暦350年から450年までの間)だと言われている。
そして「奈良時代肥の国の一郡となり」奈良時代とはいわゆる710年なんと立派な平城京から794年なくよウグイス平安京までの時代で大宝律令により律令国家で区分を統一され時に肥の国(熊本)に含まれたという事だろう。
そしてそれから長い年月が過ぎ古を伝えて今でも純情素朴な島だと。令和になってもそうだと思います。
「人口20余万人、戸数3万5千余戸、61ケ村。
米年産14万石。甘藷(さつまいも)や水産(漁業)、繭(蚕・絹)、陶石やグリンピース、無煙炭、木炭が主要産物だった。
四面環海の本郡は良き湊湾にも恵まれて、牛深・崎津・富岡や鬼池・本渡・大門は中でも著名でございます。」
第一章はここまで。次回へ続く。
明治期でいえばもちろん幕末を生きていた方々が書いたり語り継いでいたりしているわけで、今の現在まで残っていない話も多い。もちろん大正期の書物も明治期の事は経験してるわけで今よりも信ぴょう性が高いものが書かれていると思っている。読むのが楽しくて仕方ない。
こっちのブログではそちらの中身を部分公開しながら解説補足を残していこうと思う。

まずこの天草読本昭和16年9月1日発行のものから。
日本の時代背景としては昭和12年に支那事変が起こり大東亜戦争がはじまり、16年の12月にいわゆる真珠湾攻撃の太平洋戦争が始まる。その慌ただしい時代の天草の地理歴史を教える中学年用の教科書のようなものである。
冒頭に天草の成り立ちで始まる。抜粋転載する。
「遠き神代の天草は、天の両屋(ふたや)と呼びなされ建島松の命こそ、国造りとして在せしが、奈良朝時代肥の国の一郡となり、その後は、星霜(せいそう)流れて幾變遷(いくへんせん)、古風を傳(つた)えて今も尚(なお)、純情素朴な島でございます。」
天の両屋とはたぶん天草上島と下島のことかな。確かこれは古事記に書いてあったと思う。
建島松の命とは成務天皇の子(皇子)天草最初の国造りとなられた方。成務天皇とのことなので初代神武天皇からすると13代の天皇ですね。わかりやすい時代区分は古墳時代。
実はこれには補足が必要。いわゆる記紀(古事記日本書紀)においてこの成務天皇の事はほとんど書かれていない。成務天皇が書かれているのは西暦800年から900年の間に書かれた『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)に建島松の命をはじめ国造りを派遣した記述があってこれをもとに天草でも伝えていた。
この『先代旧事本紀』は江戸時代の国学者本居宣長らに偽書と認定されており、作り話の可能性がある。
ここからは想像の域。成務天皇の父12代景行天皇には八十人の皇子女がいてそれぞれ国司や郡司に任命された事は記紀に記載有。これはおそらく間違いがなく国造りには時間がかかるので景行天皇が派遣してその子・成務天皇も続けて事業を行ったのかもしれない。記紀の編纂の後年につじつまを合わせるため先代旧事本紀で国造りを記述したのではないか。建島松の命が実在したとも言えないし、していないとも言えない。江戸時代に否定されたにも関わらず昭和になって教科書に書いた理由もおそらく戦争真っただ中なので国民の心をまとめる為行き過ぎた国家神道だったのかとは少しは思いますが、この時代に天草が認識されていて日本に組み込まれた事は間違いないと思うので問題はない。今後の歴史研究を待つ。
後日追記:古事記を再度見返してみると、九州南部は12代景行天皇時に平定。14代仲哀(ちゅうあい)天皇時に九州北部の反対勢力を討伐に出発しその後、神功(じんぐう)皇后が引継ぎ平定され九州が統一されていた。ということは12代と14代の間で日本に組み込まれたで間違いない。現在この九州統一は正式な年号は確定されていないが3世紀後半から4世紀前半(西暦350年から450年までの間)だと言われている。
そして「奈良時代肥の国の一郡となり」奈良時代とはいわゆる710年なんと立派な平城京から794年なくよウグイス平安京までの時代で大宝律令により律令国家で区分を統一され時に肥の国(熊本)に含まれたという事だろう。
そしてそれから長い年月が過ぎ古を伝えて今でも純情素朴な島だと。令和になってもそうだと思います。
「人口20余万人、戸数3万5千余戸、61ケ村。
米年産14万石。甘藷(さつまいも)や水産(漁業)、繭(蚕・絹)、陶石やグリンピース、無煙炭、木炭が主要産物だった。
四面環海の本郡は良き湊湾にも恵まれて、牛深・崎津・富岡や鬼池・本渡・大門は中でも著名でございます。」
第一章はここまで。次回へ続く。
Posted by hirok○ at 06:19│Comments(0)
│天草関係書物
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