2020年10月04日
天草関係歴史書物語2
天草読本昭和16年9月1日発行の第二章から。
第二章はこの本で唯一人物の紹介だった。補足を加えながら抜粋省略転載す。
竹添進一郎。
「文学博士竹添進一郎先生は、天保13(1842)年天草の上村(現在の大矢野町)に生まれ、大正6年小田原に没せられるまで国家の為の貢献をなされた偉人である。
14歳の時に熊本にでられ儒学者木下韡村(きのしたるそん)先生のお弟子になられた。生来聡明なうえに学問に励まれたので木下一門の四天王となり、学問では第一番であったとのこと。」
ちょっと待て木下韡村ってあの横井小楠先生のお師匠さんではないですか。
木下一門を調べてみた。井上毅、木村弦雄、古荘嘉門、元田永孚(ながざね)。
この そうそうたるメンバーの中で学問1番?これはやばいな。
井上毅先生は明治憲法作った人。詳しくはこちら→(明治を学ぶ19)。そして元田永孚先生と一緒に教育勅語作った人。詳しくはこちら→(明治を学ぶ23)
「そんな人たちと一緒に学んだ竹添進一郎は明治8年東京にでた後、天津領事となり、明治16年には朝鮮公使として京城へ赴任。この頃は朝鮮の国が二派に別れ対立し非常に乱れていたので先生の苦心は一通りではなかった。あまつさえ清国が自国の権力を朝鮮に張らんとしてたので、遂に翌17年には京城に事変が勃発するに至った。この時先生は東洋平和の為に苦心に苦心を重ねたのみならず自ら日本軍を率いて清国の大群と戦を交えて大功を建てられた。明治26年には東京帝国大学名誉教授となり叙位の従三位勲三等を賜った」
17年には京城に事変というのは甲申事変(こうしんじへん)詳しくはこちら→(明治を学ぶ18)の事か。実はこれ日本にとって清と天津条約結べて結構大きな出来事で、それが後に日清戦争になるんやけど、このときの朝鮮公使って天草人だったんだ!驚き。ほんと幕末から明治って薩摩が武力に特化してて肥後では学問に特化してたんやな。そういう風土だってことがわかった。
そして第三章。天草の言葉に続く。
第二章はこの本で唯一人物の紹介だった。補足を加えながら抜粋省略転載す。
竹添進一郎。
「文学博士竹添進一郎先生は、天保13(1842)年天草の上村(現在の大矢野町)に生まれ、大正6年小田原に没せられるまで国家の為の貢献をなされた偉人である。
14歳の時に熊本にでられ儒学者木下韡村(きのしたるそん)先生のお弟子になられた。生来聡明なうえに学問に励まれたので木下一門の四天王となり、学問では第一番であったとのこと。」
ちょっと待て木下韡村ってあの横井小楠先生のお師匠さんではないですか。
木下一門を調べてみた。井上毅、木村弦雄、古荘嘉門、元田永孚(ながざね)。
この そうそうたるメンバーの中で学問1番?これはやばいな。
井上毅先生は明治憲法作った人。詳しくはこちら→(明治を学ぶ19)。そして元田永孚先生と一緒に教育勅語作った人。詳しくはこちら→(明治を学ぶ23)
「そんな人たちと一緒に学んだ竹添進一郎は明治8年東京にでた後、天津領事となり、明治16年には朝鮮公使として京城へ赴任。この頃は朝鮮の国が二派に別れ対立し非常に乱れていたので先生の苦心は一通りではなかった。あまつさえ清国が自国の権力を朝鮮に張らんとしてたので、遂に翌17年には京城に事変が勃発するに至った。この時先生は東洋平和の為に苦心に苦心を重ねたのみならず自ら日本軍を率いて清国の大群と戦を交えて大功を建てられた。明治26年には東京帝国大学名誉教授となり叙位の従三位勲三等を賜った」
17年には京城に事変というのは甲申事変(こうしんじへん)詳しくはこちら→(明治を学ぶ18)の事か。実はこれ日本にとって清と天津条約結べて結構大きな出来事で、それが後に日清戦争になるんやけど、このときの朝鮮公使って天草人だったんだ!驚き。ほんと幕末から明治って薩摩が武力に特化してて肥後では学問に特化してたんやな。そういう風土だってことがわかった。
そして第三章。天草の言葉に続く。
Posted by hirok○ at 06:40│Comments(0)
│天草関係書物
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