2015年01月22日
どうやら牛深ハイヤが本気出してきた-牛深第九景その一
こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!
牛深八景の新作『第九景(その一)』でございます。ちなみに書籍化した牛深八景には八・五景(ハイヤ大橋、海彩館)が収録されております。
今回は大テーマの『牛深ハイヤ』で2回に分けたいと思います。
1回めの今回は混同しないように牛深ハイヤ自体について。2回めは牛深ハイヤ祭りについてまとめます。
細かすぎることは伝わりにくいと思いますので、できるだけ簡潔にいきますね。
九州内ではハイヤ節、ハンヤ節。東北、北海道ではアイヤ節、宮城県や茨城県では塩釜甚句とか潮来甚句と呼ばれるこの唄の源流が牛深ハイヤ節と言われている。有名どころである四国の阿波踊りや新潟の佐渡おけさなどもこの影響をうけているとされる。
まずこの説明で有名なものが
『ハイヤ ハンヤは何処でもやるが 牛深ハイヤは元ハイヤ』
この言葉は古典邦楽、民謡学研究科権威の町田佳聲(まちだかしょう)先生のお言葉で牛深発祥だとお墨付きを頂いている。
もう少し詳しくご紹介しますと、通天橋の袂にあるハイヤ節発祥之碑から転載致します。(じっくり読まれた事がある方も少ないと思いますので)
「ハイヤ節」は元禄時代から唄いだされたもので当時の船乗り達が荒波を越える人達の心情を唄いあげたものである。当時寄港船の船乗りを相手に、牛深乙女が大いにもてなし時化ともなれば何処の「料亭」も賑いを見せ三味線、太鼓等その場に有るものをたたいて調子をとり熱狂的に唄い踊り一文無しになる迄遊び通した姿を「酒盛り唄」として唄いつがれたのが「ハイヤ節」だと伝えられ密貿易船と共にサツマ、長崎、北海にと、日本海の暖流に乗って全国の港町に上陸し歴史と共に唄い続けられて来たが之を牛深市恒例の「ハイヤ祭り」として永く後世に残す為この碑を建立するものである。 昭和五十年四月六日
この石碑に彫られている文字自体もすべて町田佳聲先生の文字だそうだ。
補足説明。
ここでも書かれているように元号は元禄(1688年~1704年)。まさしく江戸時代である。幕府五代将軍徳川綱吉の時代。歴史がとてもとても深い。
江戸時代ということでもちろん遠見番所の時代と重なります。密貿易のことは御番所編で数回説明済み。薩摩の密貿易については牛深にとって特に重要事項なので後日御番所編で詳しく掲載予定。
どうやって日本中に広がっていったのかというのは説明すると長くなりすぎるので、限界まで簡略します。
交通手段は主に帆船。牛深から大阪に向かう上下2つのルート船でそれぞれ立ち寄る町々で落とし唄い継がれた。直接牛深へ来てない船も大阪までの航路の重なる場所でハイヤを聞き東日本や北日本まで広がったとされる。これには歌だけが運ばれた為、三味線や太鼓が継承されず現代のハイヤ系民謡はそれぞれ調子や抑揚に各地の色が反映されていてその違いが現代ではとてもおもしろい。
牛深から北へ向かって大阪への航路を持つときに、南風が必要でその南風のことをハエん風と呼び、ハエがハエヤになり、ハエヤがハイヤになった。
歌詞からみても「料亭」の牛深乙女目線でしょう。その料亭の女性が作ったのかもしれない。着物の裾を三角に折り下に来ている赤い長襦袢を見せる着方をして艶を出すのはその名残りだと思う。
当時の「料亭」の女性は博学で頭も良く、仕事柄外部の人間と話すことが多い為知識も豊富だったとのこと。多少の外国語なら話せる人も少なくなかったそうだ。
政府が初めて貨幣を発行した時期で、その貨幣自体を牛深では持ってなく貧しかった。
薩摩の船が暴風がくると内海の牛深港に避難をした。時化待ちのときにその薩摩の船乗りが料亭に通ったということだ。おいしい物をたくさんご馳走してくれる上に、初めての貨幣をくれて、その上面白い他国の話をしてくれる船乗りに対して牛深乙女は真心を込めて接客をしたそうだ。
もうおわかりでしょう。その貨幣というのが新銀でその接客が新銀取坂(第三景)として残っている。
その魅力を知った船乗り達はせっせと牛深へ通い帰りは無一文になったという。
これが歌詞になっているとても有名な部分↓
『牛深三度行きゃ三度裸』である。
全国へ広まったということはそれだけ牛深の町がとても楽しかったということなのでしょうね。
*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.
今回ハイヤをなぜ勉強し直したのかというと昨年末の天草を絵描くコンクールで牛深ハイヤを描いたからです。
その結果はもう本人には通知されているですが私は目指した賞は頂けなかった。力は出し切った感があったのでとてもこれに落ち込んだ。
去年の今頃はもうその絵の構想立ててたなぁとか取材何回もやったりハイヤ祭りの時も資料をたくさん集めたな。牛深への想いをたくさん詰めこんだつもりだったけど力及ばずお恥ずかしい結果になってしまいました(>_<)
牛深の人に認めてもらいたいと思っているのに僕の恋はなかなか成就いたしません。
牛深の方々に見てもらいたいので恥を忍んで公開します。この絵が僕の牛深第九景『牛深ハイヤ』です。

クリックにて高画質
まずデッサンで構図決めをするときに3枚の絵を描いた。
長い間伝わっている漁師さんたちの元ハイヤ、と保存会の方々のハイヤ、と一番新しい世代の牛高郷芸部のハイヤ。
その中でこの2枚を油絵にした。元ハイヤから牛高生までの継承する文化が美しくて表現したかったからこの2つを一つの作品として余計なことは言わず『牛深ハイヤ』と題した。
幸いにもすでにこの絵を欲しいと言ってくださっているがこの絵に箔を付けてあげれなくてほんと申し訳なく思う。
僕は人物画専攻だったのでこれが限界に近い。この路線では天草ではおそらくこれ以上の賞を頂くことはできないと思う。目標を見失って心に穴が空いたようだった。
あまり暗いお話に伝わるといけませんね。でもその気分も持ち直しそうです。
また違う絵を全国規模の大きな賞に応募してたのですがその審査結果が速達で送られてきた。はいはい、どうせダメだったんでしょ?って見たくないって思いながら見た。もちろん受かるわけはないのですが、審査員の評価の手紙が入っていた。こういうのは大抵問題点の指摘などが多いのですが、古風でありながら現代にも通用する画風であるとか好感が持てるとか仕上げが丁寧であるとか勇気付けられる事が書いてあった。
こんな僕でも評価してくれるプロもいるんだなと描く気が起きなかった心にまた光が灯った気がした。
これからおそらくハイヤの絵はたくさんたくさん描くと思う。
その処女作が今回のハイヤの絵。
その『牛深ハイヤ』は今週末1月25日(日)から31日(土)まで牛深総合センター4階にて来月は本渡でも展示されます。実際の油絵を僕の筆の一筆一筆に込めた牛深への想いをどうかみてやってください。お願いします。
ということで次回の八景は牛深ハイヤ祭りについて書きますね!長文お付き合いありがとうございました。
はじめましての人ははじめまして!
牛深八景の新作『第九景(その一)』でございます。ちなみに書籍化した牛深八景には八・五景(ハイヤ大橋、海彩館)が収録されております。
今回は大テーマの『牛深ハイヤ』で2回に分けたいと思います。
1回めの今回は混同しないように牛深ハイヤ自体について。2回めは牛深ハイヤ祭りについてまとめます。
細かすぎることは伝わりにくいと思いますので、できるだけ簡潔にいきますね。
九州内ではハイヤ節、ハンヤ節。東北、北海道ではアイヤ節、宮城県や茨城県では塩釜甚句とか潮来甚句と呼ばれるこの唄の源流が牛深ハイヤ節と言われている。有名どころである四国の阿波踊りや新潟の佐渡おけさなどもこの影響をうけているとされる。
まずこの説明で有名なものが
『ハイヤ ハンヤは何処でもやるが 牛深ハイヤは元ハイヤ』
この言葉は古典邦楽、民謡学研究科権威の町田佳聲(まちだかしょう)先生のお言葉で牛深発祥だとお墨付きを頂いている。
もう少し詳しくご紹介しますと、通天橋の袂にあるハイヤ節発祥之碑から転載致します。(じっくり読まれた事がある方も少ないと思いますので)
「ハイヤ節」は元禄時代から唄いだされたもので当時の船乗り達が荒波を越える人達の心情を唄いあげたものである。当時寄港船の船乗りを相手に、牛深乙女が大いにもてなし時化ともなれば何処の「料亭」も賑いを見せ三味線、太鼓等その場に有るものをたたいて調子をとり熱狂的に唄い踊り一文無しになる迄遊び通した姿を「酒盛り唄」として唄いつがれたのが「ハイヤ節」だと伝えられ密貿易船と共にサツマ、長崎、北海にと、日本海の暖流に乗って全国の港町に上陸し歴史と共に唄い続けられて来たが之を牛深市恒例の「ハイヤ祭り」として永く後世に残す為この碑を建立するものである。 昭和五十年四月六日
この石碑に彫られている文字自体もすべて町田佳聲先生の文字だそうだ。
補足説明。
ここでも書かれているように元号は元禄(1688年~1704年)。まさしく江戸時代である。幕府五代将軍徳川綱吉の時代。歴史がとてもとても深い。
江戸時代ということでもちろん遠見番所の時代と重なります。密貿易のことは御番所編で数回説明済み。薩摩の密貿易については牛深にとって特に重要事項なので後日御番所編で詳しく掲載予定。
どうやって日本中に広がっていったのかというのは説明すると長くなりすぎるので、限界まで簡略します。
交通手段は主に帆船。牛深から大阪に向かう上下2つのルート船でそれぞれ立ち寄る町々で落とし唄い継がれた。直接牛深へ来てない船も大阪までの航路の重なる場所でハイヤを聞き東日本や北日本まで広がったとされる。これには歌だけが運ばれた為、三味線や太鼓が継承されず現代のハイヤ系民謡はそれぞれ調子や抑揚に各地の色が反映されていてその違いが現代ではとてもおもしろい。
牛深から北へ向かって大阪への航路を持つときに、南風が必要でその南風のことをハエん風と呼び、ハエがハエヤになり、ハエヤがハイヤになった。
歌詞からみても「料亭」の牛深乙女目線でしょう。その料亭の女性が作ったのかもしれない。着物の裾を三角に折り下に来ている赤い長襦袢を見せる着方をして艶を出すのはその名残りだと思う。
当時の「料亭」の女性は博学で頭も良く、仕事柄外部の人間と話すことが多い為知識も豊富だったとのこと。多少の外国語なら話せる人も少なくなかったそうだ。
政府が初めて貨幣を発行した時期で、その貨幣自体を牛深では持ってなく貧しかった。
薩摩の船が暴風がくると内海の牛深港に避難をした。時化待ちのときにその薩摩の船乗りが料亭に通ったということだ。おいしい物をたくさんご馳走してくれる上に、初めての貨幣をくれて、その上面白い他国の話をしてくれる船乗りに対して牛深乙女は真心を込めて接客をしたそうだ。
もうおわかりでしょう。その貨幣というのが新銀でその接客が新銀取坂(第三景)として残っている。
その魅力を知った船乗り達はせっせと牛深へ通い帰りは無一文になったという。
これが歌詞になっているとても有名な部分↓
『牛深三度行きゃ三度裸』である。
全国へ広まったということはそれだけ牛深の町がとても楽しかったということなのでしょうね。
*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.
今回ハイヤをなぜ勉強し直したのかというと昨年末の天草を絵描くコンクールで牛深ハイヤを描いたからです。
その結果はもう本人には通知されているですが私は目指した賞は頂けなかった。力は出し切った感があったのでとてもこれに落ち込んだ。
去年の今頃はもうその絵の構想立ててたなぁとか取材何回もやったりハイヤ祭りの時も資料をたくさん集めたな。牛深への想いをたくさん詰めこんだつもりだったけど力及ばずお恥ずかしい結果になってしまいました(>_<)
牛深の人に認めてもらいたいと思っているのに僕の恋はなかなか成就いたしません。
牛深の方々に見てもらいたいので恥を忍んで公開します。この絵が僕の牛深第九景『牛深ハイヤ』です。

クリックにて高画質
まずデッサンで構図決めをするときに3枚の絵を描いた。
長い間伝わっている漁師さんたちの元ハイヤ、と保存会の方々のハイヤ、と一番新しい世代の牛高郷芸部のハイヤ。
その中でこの2枚を油絵にした。元ハイヤから牛高生までの継承する文化が美しくて表現したかったからこの2つを一つの作品として余計なことは言わず『牛深ハイヤ』と題した。
幸いにもすでにこの絵を欲しいと言ってくださっているがこの絵に箔を付けてあげれなくてほんと申し訳なく思う。
僕は人物画専攻だったのでこれが限界に近い。この路線では天草ではおそらくこれ以上の賞を頂くことはできないと思う。目標を見失って心に穴が空いたようだった。
あまり暗いお話に伝わるといけませんね。でもその気分も持ち直しそうです。
また違う絵を全国規模の大きな賞に応募してたのですがその審査結果が速達で送られてきた。はいはい、どうせダメだったんでしょ?って見たくないって思いながら見た。もちろん受かるわけはないのですが、審査員の評価の手紙が入っていた。こういうのは大抵問題点の指摘などが多いのですが、古風でありながら現代にも通用する画風であるとか好感が持てるとか仕上げが丁寧であるとか勇気付けられる事が書いてあった。
こんな僕でも評価してくれるプロもいるんだなと描く気が起きなかった心にまた光が灯った気がした。
これからおそらくハイヤの絵はたくさんたくさん描くと思う。
その処女作が今回のハイヤの絵。
その『牛深ハイヤ』は今週末1月25日(日)から31日(土)まで牛深総合センター4階にて来月は本渡でも展示されます。実際の油絵を僕の筆の一筆一筆に込めた牛深への想いをどうかみてやってください。お願いします。
ということで次回の八景は牛深ハイヤ祭りについて書きますね!長文お付き合いありがとうございました。
Posted by hirok○ at 01:53│Comments(4)
│牛深八景
この記事へのコメント
達成感だけで満足できれば言うことないのでしょうが
残念な結果となった時のお気持ちは、絵に無縁な私にでも
察することが出来ます。描ける才能って素敵ですね(*^_^*)
認めて下さる方もおられるので、益々のご活躍を願っています!
残念な結果となった時のお気持ちは、絵に無縁な私にでも
察することが出来ます。描ける才能って素敵ですね(*^_^*)
認めて下さる方もおられるので、益々のご活躍を願っています!
Posted by あひるちゃん at 2015年01月22日 13:22
》あひるちゃん
ありがとうございます。
そうなんですよね、今回達成感あっただけに牛深で認められたかったんですよね。見て頂けて嬉しく思います。頑張ります。
ありがとうございます。
そうなんですよね、今回達成感あっただけに牛深で認められたかったんですよね。見て頂けて嬉しく思います。頑張ります。
Posted by hirok
at 2015年01月22日 23:38

こんばんは!絵、とても素晴らしいです!郷土芸能部の絵は私の友達で、凄く似ています(((o(*゚▽゚*)o)))
私は高校3年でセンター試験も終わり、久しぶりにこのブログを拝見しました!
私は将来、牛深を活性化し牛深をもっと元気にできるような人材を目指しています。大学も地域創生学群と言って、町づくりや活性化について学びます。いつも、どうすれば牛深が元気を取り戻す事が出来るのか、という事ばかり考えています。私は中学生の頃までずっと牛深で暮らしてきて、本当に居心地の良い所だと思います!私は牛深が大好きですし、これからはそんな生まれ育った牛深に恩返しができるように4月からまた新しい場所で頑張りたいと思います!
このブログを読むと凄く牛深愛が伝わり、牛深のために頑張っている方々が沢山いらっしゃる事を知りました。
これからも、牛深の歴史や情報よろしくお願いします\(^^)/
私は高校3年でセンター試験も終わり、久しぶりにこのブログを拝見しました!
私は将来、牛深を活性化し牛深をもっと元気にできるような人材を目指しています。大学も地域創生学群と言って、町づくりや活性化について学びます。いつも、どうすれば牛深が元気を取り戻す事が出来るのか、という事ばかり考えています。私は中学生の頃までずっと牛深で暮らしてきて、本当に居心地の良い所だと思います!私は牛深が大好きですし、これからはそんな生まれ育った牛深に恩返しができるように4月からまた新しい場所で頑張りたいと思います!
このブログを読むと凄く牛深愛が伝わり、牛深のために頑張っている方々が沢山いらっしゃる事を知りました。
これからも、牛深の歴史や情報よろしくお願いします\(^^)/
Posted by 海 at 2015年01月23日 20:42
》海さん
センター試験お疲れ様でした。まだもうしばらく受験は続くと思いますが体調管理には気をつけてくださいね。大切な時間を長文コメントに使ってくださってありがとうございます。海さんみたいに故郷を思う気持ちを大事にする方がいることを私も嬉しく思います。牛深で学べないことを外で学んでそれを牛深に還元することが大事で、すでにその気持を持っている事が牛深を元気にするのは間違いないです。牛深のことをしっかり知ってから大学で学ぶと通常とはまた違った牛深に有益な見識ができると思います。頑張れ受験生。あ、あと絵のお友達にも機会がありましたらよろしくお伝え下さい(>_<)
センター試験お疲れ様でした。まだもうしばらく受験は続くと思いますが体調管理には気をつけてくださいね。大切な時間を長文コメントに使ってくださってありがとうございます。海さんみたいに故郷を思う気持ちを大事にする方がいることを私も嬉しく思います。牛深で学べないことを外で学んでそれを牛深に還元することが大事で、すでにその気持を持っている事が牛深を元気にするのは間違いないです。牛深のことをしっかり知ってから大学で学ぶと通常とはまた違った牛深に有益な見識ができると思います。頑張れ受験生。あ、あと絵のお友達にも機会がありましたらよろしくお伝え下さい(>_<)
Posted by hirok
at 2015年01月24日 02:50

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