2014年05月08日

完全金刃比羅神社マニュアル

今回は舟津郷金刃比羅(ことひら)神社、いわゆるこんぴらさんについて調べたものをまとめようと思います。
完全金刃比羅神社マニュアル
以前八景で恵美須神社を描いたときにこの金刃比羅神社についても書こうとしてましたがあのときまとめないで良かったと今思っています。あのとき書こうとしてたことと今になって書こうとしていることは全くの正反対になってしまったからです。

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

今回のまとめのテーマは地元牛深でも議論になっていると聞く『金刀比羅』か『金刃比羅』か(刀か刃の違い)についてである。ちょっと長くなりそうなので特に伝えたく重要なのは後半の結論ですので、前半は飛ばしてもらって構いません。ご興味あられる方は時間つぶしにでも使って読んでやってください。

この議論が出たのは近年恵美須神社と同じくこの金刃比羅神社も鳥居を新しくされたときのことだ。元あった鳥居の表札にこう彫ってありそれと全く同じ文字を彫ったということだった。(この文字は境内裏に保管してある)
全国には大小約600社ある神社であるわけですが、私がネットで調べた範囲で申し訳ないのですがこの牛深の『刃』を使っている神社は全国他に一社も見つけることができなかった。崎津の金刀比羅神社に行った時も確認したら『刀』だった。もしかしたら天草では『刃』を使ったのかな?という仮説を立ててみたもののすぐ否定された。このことが私の中で、『刃』は間違いではないかという疑問に大きく影響を与えていました。

地元歴史家の方たちも『刀と刃では、漢字の意味が全くの別物なのでこれは間違い』だと主張されているのを聞いた。私も全く同じ考えだった。

それでまずこんぴらさまの総本宮を調べる事にした。
香川県仲多度郡琴平町にあり、祭神は主に大物主神崇徳天皇であります。
大物主についてはご存知の方が多いと思いますし、古事記と日本書紀において違いがありますので詳しくは書きません。簡潔に金刀比羅宮の公式から転載しますと大国主神の和魂で国造りの神様。万物をつかさどることをたたえた神名の通り、五穀豊穣や産業、文化などの繁栄と、国や人々の平安を約束してくれる神様です。特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集めるとのこと。

そして私が特筆するのはもう一神崇徳天皇についてです。
崇徳天皇の表の歴史は語られますが裏の歴史はあまり語られません。
崇徳天皇(1119年-64年、在位1123年-42年)
1864年 700年式年祭(700回忌)に時の孝明天皇は白峯社創建を命ぜられた。
1964年 800年式年祭(800回忌)に昭和天皇は白峯御陵に勅使を差し遣いになられた。
崇徳天皇が崩御されて800年以上経った今でも鎮魂の祭祀が執り行われている。
なぜこれまで長い間御霊鎮めが行われているのかと言うのが教科書では教えない裏の歴史なのだと思う。

崇徳天皇を語るには保元の乱(1156年)を外せないのですが、ほんと長くなってしまいますのでこれも簡潔で申し訳ありません。保元の乱とは天皇方と上皇方(天皇の父、崇徳天皇の弟を天皇にしたい)に別れた皇位継承問題から発生したいわゆる兄弟げんかなのである。
その保元の乱に敗れ讃岐に流された悲劇の天皇で朝廷に恨みを持ち自ら舌を切りその血で経文に天下滅亡の呪いを書き残し憤死したと伝えられる。没後様々な怪奇現象や凶事が起こり、国家動乱も相次ぎさらには平氏政権が誕生し朝廷から政治権力が切り離された。

没後100年、200年・・・と百年祭前後3年間ごとに国家を揺るがす動乱が起こる。細くは省略いたしますが朝廷と幕府が対立したり応仁の乱だったり元寇(日本最初の外国からの戦争)だったり壇ノ浦の戦いなどなどだ。

こういう史実から崇徳天皇は怨霊として恐れられ、1864年孝明天皇は白峯社(京都)創建を命ぜられたのである。崇徳天皇は讃岐で京都に帰ることを願い続けたが叶わぬ夢であったのだが没後その神霊は700年ぶりに京都にお戻りになられたということになる。明治天皇が即位する前日の事だった。事前に崇徳天皇と朝廷が和解をしておく必要があった為だと聞いて納得した。

崇徳天皇が怨霊になったと書いたが、これは幽霊が存在するとか科学的に証明出来ない物を、そういうオカルト的な事を言っているのではありません。追い落とした者達が追い落とされた者を鎮魂しているのは矛盾していているのにも関わらず800年以上経った今でも祭祀を行っている。没後の史実が崇徳天皇に全く関係ないかも知れない。けれども朝廷に恨みを持ち朝廷の存続に関わる凶事が関係年に必ず起こった事実が恐怖心を増大させた。実際余程の恐怖心がなければここまで行われないはずで残された人々がここまで行ってきたことが崇徳天皇を怨霊に事実化させたのだ。
完全金刃比羅神社マニュアル崇徳天皇図

そこで牛深の『金刃比羅神社』の漢字を想った。
ここからは私のほんと個人的に考えた事です。関係者に不快にさせてしまいましたらいけないと思いますので事前にお詫びいたします。申し訳ございません。ですが後に自己否定しますのでご安心ください。

舟津郷の金刃比羅神社がいつ創建されたのかは私はわかりません。今の場所には昭和になるまで道は無かった(遠見番所役人の家族のお墓があった)と思いますので違う場所にあったのか小さくてもあったのかもしれません。鳥居の劣化から見て仮に場所が下の恵美須神社と同時期に立てられたとすると昭和36年、この時代は牛深のいわし漁業繁栄期。今までこのブログで書いてきたように日本一の漁港とまで謳われた牛深漁港がこの時期を境に衰退を始める。現在の牛深の衰退は当時の方がこの漢字を間違えて創建してしまった為崇徳天皇の逆鱗に触れたのではないかと思った。

これは一刻も早く文字の修正を行わないといけないと考えた。
幸いにも私は以前少し書いたことがあるが、こういう看板や標識いわゆるサイン関係の仕事に関わっているのでわかるのですが、文字の表示面をすべて変えることになるとそれはそれで費用がかかる。今回は『刃』を『刀』に変えるというか『、』を埋めればいいだけなのでこういう修正は同素材の石の削り粉を接着剤と練り合わせ埋めるやり方がある。これはほんとに作業代程度でほんと安く補修することが出来る。ここまで考えて区長さんへ提案をしようとまで考えてた。

これをやらないと牛深の復興はありえないとさえ思った。こういうことで流れが一気に変わり繁栄することがよくあるということはみなさんご存知のことだと思う。

と、ここまでが以前私が書こうとしてたことでした。
ですが繰り返しますが結論を出すのはもう少し待ってください。
一回で全部書くつもりでしたが思いのほか時間がかかってしまいましたのでこの続きはまた次回後半に致します。後半で完全否定いたしますので再度書きますがご安心を。

続きは→こちら








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