2016年09月03日

夢を初めて願って~♪人生一回目の絶頂期。

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

この記事は絶対牛深八景で書きたいなと思いまして。

牛深ではもう回覧板で回っているそうでお気付きの方いらっしゃると思います。
牛深の友人たちもを連絡くれました。なんかくすぐったい感じ。こういう事を気付いて連絡してくれる友人は一生大事にしたいなぁなんて嬉しく思う。


牛深ハイヤ公式HP
フルカラーでご覧になられたい方↑こちらまたは↓こちらを御覧ください。

天草宝島観光協会HP

一旦は諦めたハイヤのポスターなのですが返り咲きいたしました。
んふふ。

んふふ。にやけがとまらないっす。

この絵を描くまでの過程はこのブログに詰まってます。
3年の月日をかけたこのブログに詰まってる。過去の記事と重複することもあると思いますが、ここでその想いをぶちまけるぜ。

簡潔に言うと、ハイヤのポスターを描くというのがイラストレーターを志したときの夢だったんすよ。

牛深ハイヤを表現するために牛深の歴史を調べ、学んでたのです。しかもハイヤの発祥江戸時代まで遡ってまで。
だからこのポスターを描くまでに3年かかりました。

こういうときにネットでは言うフレーズがあります。ついに俺も言える時が来た。言わせてください。

『これがさ、牛深から熊本へ出てきて努力した、一つの結果やもんでさ』

みなさんに見てもらいたいんですわ。


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夢を初めて願って~♪

今日までどれくらいたっただろう?♪

普通はこんなことやりませんが、まさしく私のマスターピースとなったこのデザインは解説を残しておこうと思います。はっきり意味を伝えたいためです。


「牛深ハイヤ」の文字は昨年全国総文祭熊本県代表松下さん(牛深出身)に書いていただいた書。

踊り手さんたちは一番古い元ハイヤから一番新しい牛高生郷芸部までで牛深ハイヤを現代浮世絵という手法で表現。
大漁祈願のえびす様。

背景には関西国際空港をデザインした世界的建築家レンゾ・ピアノ氏によるハイヤ大橋。
天草夕日八景にも含まれる小森海岸の夕日。江戸時代からこの海域を数多の漁船が通っていた。中国からの唐船もここから牛深へ入ってきている。牛深竜宮伝説にもなる龍仙島。この島は鹿児島桜島の噴火による溶岩地層(国指定天然記念物)。
その手前は炭鉱で栄えた時代もある象徴の海底烏帽子炭鉱。

この一枚に江戸時代から受け継がれるハイヤを詰め込んである。

人物画のほうはそれだけでも一枚絵に対応できるクオリティで全員ほぼ全身描いてあって、それを後にレイアウトしております。その中で牛高生の拡大を公開。
450
この部分というところの着物の彩色にまるまる2日約40時間ぐらいかかってる。トータルでどれだけかかっているのかはご想像で。
時間かければいい作品ができるというわけではなくそんなことを言いたいわけではありません。それだけの時間牛深ハイヤだけを想ってひたすらキャンバスに向かったっていう気持ちを伝えたい。みんなに伝われ~。

横浜に住む僕の初恋の人も見てくれてメールをくれた。掲載許可もらってないけどいいかw
「素敵です。故郷に錦飾ったね!
そして、すっごく行きたい。ハイヤ祭りポスター、やっぱりいいですよ。
素敵です。牛深の人でないと思いつかないよ。
めっちゃ牛深帰りたいです。」

彼女に言ってもらう言葉は今でも特別で……最大の賛辞ではないか。ほんと泣いてまうわ。

ということで私hirokは憧れに憧れた公認ハイヤ絵師になりました。かたらんなよりハイヤ絵師の誕生の瞬間でございます。牛深ハイヤの歴史に名を残せた。

もちろんここまで沢山の方にお世話になりました。関係して応援してくださった方々本当にありがとうございました。

お絵かきブログではまだまだイラストモデル募集しております。
熊本地震に関しては無料で描いていますよ。公認ハイヤ絵師に描いてほしいなぁなんて思ってる方いらっしゃいませんか?ほんと今だけですので。応募はこちら
ハイヤ絵師の牛深マスコットハイヤコちゃんLINEスタンプ→にてまだまだ発売中だぞ。おめでとう購入お願いします。

  
タグ :牛深ハイヤ


Posted by hirok○ at 04:54Comments(2)牛深八景

2015年12月23日

僕のマスターピース-牛深八景最終景-

今年の絵馬には牛深復興と共にこう書いた。

『思いっきり絵が描けますように』
画像こちら

今年は念頭に一年間で絵を描くのを休む日を5日と決めた。前年8日間で満足出来なかったから。
描いても描いても飽きることはなく、描いている側から5つぐらい先に描く絵の描きたい衝動を我慢しながら制作に取り組んだ。

物理的に絵の道具が手元にないときなど含めほんとに5日しか休まなかった。
いそんな誘いを断り、いろんなものを犠牲にして近親者には迷惑をかけたであろう残り360日は毎日毎日絵を描いていたことになる。

こんだけ描いたら制作意欲は尽きるでしょう、と思いきや増す一方で。
一年間思いっきり絵を描くことが出来たと思う。絵馬の願いは叶った。

その今年描いた絵たちはTwitterなどでまとめ絵を公開してます。ご興味ある方はそちらでご確認をしていただけると嬉しいです。
IDは下部に記載。

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『牛深ハイヤ』というものは牛深人にとってとても大事なものである。

もちろん私にとってもそう。

約3年の間、『牛深八景』と『絵で見る江戸時代の牛深』を制作してきて牛深の歴史を学んだ。

そして牛深出身イラストレーターとして最大の夢である『牛深ハイヤ祭りのポスター』を描くこと。
この3年間はこのために時間を費やしてきたといっても過言ではない。

初めてそのデザインコンペに参加出来た、とても嬉しかった。


結果から先に言いますと落選してしまいました(;´∀`)

牛深の人たちには受け入れられなかったということが明白になった。
素人が選ぶものだからデザイン的に劣っていたとは少しも思っていない、その点のショックは無い。でも素人にもわかるように圧倒的なデザインをしないといけないのも事実。
今回のポスター案制作にはいろんな方のお世話になったし応援もしてもらった。また同時にたくさん迷惑もかけた。落選したというショックよりこんな結果になってその方々に申し訳がないという気持ちの方が大きい。

ハイヤ祭りは毎年あるんだしまた頑張ればいいじゃないと思われるでしょうが、正直こんなに迷惑かけて来年もとはさすがに言えませんし、今回以上の制作力、また協力をいただくのは実際無理だ。

それがわかっていたから一回限りの挑戦だった。
人物は一人当り3日かかり新規で6人描いたのでそれだけで18日かかった。先月一ヶ月籠もって時間をかけた。

これだけ時間かけたから凄い作品になったよとか言いたいわけじゃない。
僕にとってとても大事だったから気持ち込めて描きたかった。

前半で今年描いた絵をまとめた事を書いたが、今年描いたその絵たちも含めこれまで描いてきた何十、何百の絵全てが今回のポスターにつながっている。

ここでは牛深だけに特化しているので牛深を描いた僕の3年間の絵だけをまとめてみた。(クリックにて拡大)



採用はされなかったが、今度のポスター案は間違いなく自信を持って僕の最高傑作を更新したと言える作品になった。
2つの案を提出していた。(クリックにて拡大)

(公開一時停止中)

一番古い元ハイヤから牛高生までの各年代で牛深ハイヤを表現した。
文字もまた総文祭県代表の牛高生徒さんに依頼した。完全に純牛深人だけで制作したということ。

このポスターを描き上げた時、出来上がったポスターを見て感じた。

僕はこのポスターを描くために今まで生きてきたんだ。しっかり僕の人生が載った作品だった。
何も恥じることはない。

いくら気持ちを込めても勝負事には1位でないといけない。勝つか負けるか。
ということで、敗者である僕の残された仕事はお世話になった方々に感謝の気持ちを伝えることだと思う。

僕には牛深があって良かった。牛深の事を学んだこの3年間は自分の中で輝いていて出会い一つ一つがとても楽しかった。
特に観光協会牛深支部長浜崎先生には数年に渡りとてもお世話になった。感謝してもしきれないし僕の力不足がほんとに恥ずかしい。

浜崎先生は議会見ていても伝わっていますが、天草市議の中でも牛深の事をとても考えてらっしゃる素晴らしい先生で僕みたいな若輩者を最後まで後押ししてくださった。
ここをずっと読んでくださっていた牛深の方々、本を購入して応援してくださった方々、ポスター制作に協力してくださった方々、浜崎先生、本当にありがとうございました。感謝の気持ちは言葉では表現できません。


今回の落選はポジティブに受け取るとそろそろ牛深から離れて外に出てもいいんだよということなのかもしれない。
応援してくださる方達からは次の本を待ってる期待を感じて迷ってはいたがここできっぱり終わりにしようと思う。牛深での目標が無くなったからだ。

もう牛深に対して僕は絵を描くことができない。
描けないからこれで牛深八景最終景ということになる。

誤解がないように書いておきます。絵を描くのをやめるわけじゃありません。一生絵は描きます、ご心配なさらず。僕の中では2大人生目標があってその両輪が生きる希望だった。片方が消えただけでこれでもう一方に専念できるということです。
今後自分自身のためだけに牛深を描くことはあるとは思います。

この牛深八景ブログは今回の更新で最後。いつごろになるかはわかりませんが新規で牛深に関係なく、このブログで休題として書いていた牛深に関係ない内容のブログを始めようかなと考えてます。牛深の看板を外すということでしょうか。
新規ブログ作成報告その他もろもろの報告はTwitterやHPで掲載していきます。

Twitter→ hirok または @hirok_studio で検索。相互フォロー歓迎。
HP→ http://hirok-studio.jimdo.com/ 

それでは牛深八景これにて終了いたします。
あー公式ハイヤ絵師になりたかったぁ(TдT)長い間、ありがとうございました、そしてすみませんでした。  
タグ :牛深八景


Posted by hirok○ at 03:10Comments(1)牛深八景

2015年10月09日

長良の足についてこれる?-牛深第十景その三

続きものです。その一→こちら

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

最近巷で女子に大人気のゲームがあります。その名も『刀剣乱舞』(とうけんらんぶ)

名刀を擬人化した「刀剣男士」を収集・強化し、合戦場の敵を討伐していく刀剣育成シミュレーションなのですが、その擬人化した男の子に女子たちがはまってるのです。

最近は歴史が好きな女子が増えていて歴女なんて言葉も生まれる社会現象とまでなっておりますが、自分のお気に入りの男子のモチーフになった刀を直に見たいと所蔵する博物館などを訪れる人達が増えているそうだ。

熊日さんで何度か記事になっていると思いますのでご存じの方も多いかもしれません。
そのゲームの中でも『同田貫正国』レア3最高ランクの打刀モデルになっている実物が玉名に現存公開されていて来場者が急上昇しているとのこと。
そこで玉名市のHPを見てみた。こちら

おっと、まさかの刀剣乱舞とタイアップしてるじゃないですか!

温泉街である玉名は来客が増えてもすぐ観光客を収容できる施設が充実してるため観光へ結びつける対応も早い、さすがだなぁと思った。
そう、流行りモノというのは観光にすぐ反映できる持ってこいのものだと私も思います。


予告していました通り第十景の最後は私の絵を公開するのですが、内容はその刀剣乱舞と同じブラウザゲームの流行りもの。
『艦隊これくしょん』略称『艦これ』についてです。

上記した刀剣乱舞の登録者は130万人を超えているそうですが、艦これはなんとそれを上回る300万人を突破しています。もちろん僕もやっていますが周りでもやってる人が多い。
アニメ化もされイベントもさまざま運営人も有能でまだまだ人気は衰えるような気配はない。

実在した艦艇を萌えキャラクターに擬人化した「艦娘(かんむす)」を集め、強化しながら敵と戦闘し勝利を目指すというもの。

その艦娘という女の子たちがかわいいのも人気の理由なのですが、なんといっても設定が凄い。

各艦娘のグラフィックには題材となった艦の外見的特徴が描き表されており、戦闘に用いられるパラメータにも史実上の海戦で起こった出来事などが反映されるものとなっています。艦娘が備える兵装も実在の兵装がパラメータ化されていてゲーム中で出撃する海域の名称は、実在の地名や史実の海戦を想起させる、歴史好きにはたまらない。

もちろんゲーム自体も面白いので歴史を知らない人でもこのゲームで遊びながら歴史に興味を持ち学ぶ形になっています。

前回までまとめているように牛深大島沖で軽巡長良は眠りにつきました。
艦これでは長良はプレイヤー(自分)のことを提督ではなく司令官と呼ぶ。そして代表的なセリフが第十景の題名にしている『長良の足についてこれる?』なのです。

それだけスピードを重視して作られ自信があるという事。皮肉にも最後はその自慢の早い足でも米潜水艦から逃げることが出来なかった。

そう思うとこのセリフがとても切なく、いや、最後だって戦闘中の沖縄から民間人を鹿児島まで立派に移送完了した後だったじゃないか!お前の足はほんと立派で大活躍した、胸を張れ!と言ってやりたくなる。

だから僕は牛深を表現するのにこの長良を、艦これの長良で描くことに決めました。


*.♪★*・゜・*♪*.♪我、夜戦に突入す!・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪


牛深港に何度も長良が来ていたということは前回までに書きました。

ということで海彩館前の旧牛深漁港へ碇泊する長良を愛情たっぷり込めて描きました。見てやってください。


『軽巡長良、ただいま牛深港へ帰還しました!!』
(クリックにて拡大)




そして先日、艦これ長良を長良記念館へ連れて行ってきました。


艦これ長良を検索してここを見てくださっている方!長良記念館は熊本県天草市牛深にございます。
大変長良に縁の土地でその関係はこの第十景のその一から御覧ください。そして牛深へ訪れてみてください。一緒に長良を偲びましょう。

牛深も玉名と同じように艦これとタイアップしませんかぁ?300万人の艦これファンにアピールするのも観光の良い手であると思います。




  


Posted by hirok○ at 05:43Comments(4)牛深八景

2015年09月18日

長良の足についてこれる?-牛深第十景その二

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

続きものです。その一→こちら

牛深の事で軍艦長良を学ぶにはこの本を読まないわけにはいかないということで読ませていただきました。


島一春著「天草灘にひびけ鎮魂の譜」1995年。
戦後50年のときということで今から20年前。最近古文書とか読んでたから20年前でも最近に思う、笑。

天草出身の作家島一春氏がラジオ番組の取材で牛深へ何度も訪れ一人のおばあちゃんにインタビューする事がきっかけでこの本がうまれました。

冒頭。『天草を描くには天草の海をしらなければならない。天草の海を知るには、肥後随一の漁業の町である牛深の歴史や、そこに生きた人びとの哀歓にふれ、海のうねり、磯の香や風のささやきにふれなくてはならない、とわたしは思った。』と書いてありました。

天草を知るには牛深を知らないといけないと見識のある方が文字に残してくださっている。嬉しいことですね。

その牛深で長年私財を投じて軍艦長良戦没者の供養をひそやかに続けていた人がいました。
名を「佐々木つる」さん。このブログでは私の母がお世話になっていたこともあり、母が呼んでいる「おつるおばさん」と親しみを込めてこれから表記致します。

この本はおつるおばさんの一生を振り返り、なぜ自分の身内が亡くなったわけではないのに一人の女性が長年毎日毎日長良の供養を行ってきたのかを探るノンフィクションです。この中に牛深の紹介で遠見番所の事も書かれていましたし、牛深にまつわる明治維新の頃の事も書かれていました。その辺りは御番所ブログで後日纏めます。

おつるおばさんは尋常小学校卒業後鹿児島東郷へ父とともに渡る。
東郷の地では日清、日露戦争に従軍した元軍人が何人もいておつるおばさんはその方達より戦争体験をよく聞いていた。

そして父から話を聞いていた太平記の楠木正成とその子正行の戦物語に感動を覚えた。この二つの話の共通点である死を顧みずに国のために戦うこと。その純烈さにおつるおばさんは人間の生命の炎のような燃焼を感じとったそうだ。

明治45年、母が病になった知らせを聞いたおつるおばさんは牛深へ戻ってくる。
母の代わりに弟たちを育てるため母の青果の仕事を受け継ぐ。14歳だった。

大正12年染屋(牛深では旗屋、主に祝旗や大漁旗を染めるため)に嫁ぐ。
染屋は何度も水洗いをするため大量に水を使う。水資源が乏しかった牛深ではその水汲みが大変な重労働だった。その仕事は身重のおつるおばさんの仕事だった。

娘さんが産まれ素直にすくすく育った。

娘さんが小学3年生になった頃、牛深には軽巡夕張、軽巡長良、その他駆逐艦が湾内に碇泊することがあった。
牛深の人たちは海岸に集まり万歳を叫び、艦上では水兵さんが手を振り返した。

娘さんが軍艦に乗ってみたいと言う。だがこの希望をおつるおばさんの力では叶えてあげることができないのは当たり前のことだった。
しかし娘さんは軍艦に乗ってみたいと事あるごとに言っていたのでしょう。その話が軍人さんの元へ届き、長良の水兵さんが娘さんに艦内を見せてくれたのだそうだ。帰りにキャラメルなどのお菓子もおみやげに持たせてくれたそうだ。

これがおつるおばさんと長良の出会いである。

それから2.3年の時間が経った。その後長良は牛深へ来てなかったようだった。
娘さんが七夕の短冊に書いた願いの一つに、「長良よ永遠に」と書いているのを見てまだ覚えているんだとおつるおばさんは思って心に残った。

牛深は平和であったが、海を隔てた場所では満州事変から盧溝橋事件へ全面戦争が始まろうとしていた。
次第に牛深でも若者が出征していき宮崎八幡宮での兵隊見送りが町を上げての盛大な行事になった。

夫は体を悪くしたためおつるおばさんは休まず働いた。熊本へ仕事で出た時は海軍へ献金も行っていた。海軍へ献金したのは長良への感謝の気持ちと娘さんが海軍好きだったからだった。

昭和18年5月21日
山本五十六連合艦隊総司令官の戦死が一般に発表された。
昭和天皇が終日ご文庫にて籠もられお慎みなられたあのときのことだ。関連→昭和天皇に日本の心を見た-その1

記録のためにもう少し詳しく。
4月18日、最前線で戦う兵士を鼓舞するため山本長官と参謀長が2機の攻撃機に分乗しバラレ島に向かった。
しかし米軍は日本の行動電報を解読し2機を奇襲。1機は海中、1機はジャングルへ墜落した。

ジャングルへ墜落した方には山本長官が乗っていて、機銃弾を頭と胸に受け日本刀を両膝の間に挟んで端然と座席に座ったまま絶命していたと言われている。

日本は山本長官を失ったことで国民の心に大きな風穴を開けた。
長官の国葬6月5日、牛深では町にサイレンが鳴り響き海辺でも家庭でも、海上でも全員が黙祷を捧げ冥福を祈った。

おつるおばさんはこのとき東に向かって深々と頭を下げ、止めどない涙を流したそうだ。


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そして運命の昭和19年8月7日が訪れる。
その日おつるおばさんは須口へでかけ家路についていた。一瞬大気が震えた。

何が起こったかわからず海を見ると沖合に煙が立ち上っていた。

一方、天草灘を見張る軍の監視所では一隻の巡洋艦が通っているのを確認していた。
本渡の司令部へ電話連絡しようとした矢先、閃光が走り水柱が立ち昇るのが見えた。2発目の攻撃を受けた。
もう一度望遠鏡で沖合を見た。凪いだ真昼の海のかなたに、艦首を天にむけて沈没していく黒い艦影をはっきり確認して司令部へ連絡した。

大島沖合では牛深の漁師がマンビキ(シイラ)漁を行っていた。その漁師さんたちは度々牛深へ来る長良を見ていてそのとき通っていた軍艦が長良だとわかった。

漁を続けようとした所、閃光が走り水柱が起こった。長良の速度がみるみるうちに落ちていく。近くに居た牛深の漁師達は巻き込まれるのを恐れず全速力で助けに駆けつけたのだった。

漁船の救助により乗組員のうち235人は牛深の港へ上陸することが出来た。誇れる牛深先人たち。本当に素晴らしい勇敢な行動ですね。

ここの長良のことも、もう少し詳しく書いておきます。
長良は敵潜水艦に気がついていた。このとき潜水艦雷撃を避けるため有効な回避方法であるジグザク走行を行っていた。戦艦にはできない巡洋艦ならではの回避行動である。

米潜水艦クローカーの後部発射管から4本の魚雷が射出され、うち1本が長良の右舷後部に命中、艦首は天草の陸地を向いた。艦は傾きはじめ続く2発めの被弾で大きく振動し艦首を天へ向けた。

この直前中原義一郎艦長は落ち着き払った声で(このとき自身は死の覚悟を決めていたのだろう)「総員退去」の命令を発した。

長良には乗組員583人いたが生存者は上記した235人。中原艦長ほか347人の軍人は長良とともに天草の海底へ沈んだのである。

ただこのことは戦時中であったため、長良が沈んだことは日本国民にも知られてはならず、すぐさま軍の厳しい箝口令がしかれた。牛深の人同士でも話すことができなかった。

二十歳になっていた娘さんとおつるおばさんは二人で涙を流し長良艦の方達の冥福を心から祈ったという。

ここまでが本の前半です。ここから後半はおつるおばさんの慰霊の積み重ねが書かれています。お読みでない方々に読んでいただきたいので詳しくは纏めません。絶版になっているのかこの本の価格は値下がりしてなくむしろプレミアがついて高くなっているところもあるので新しく手に入れるのは少しむずかしいかもしれませんが牛深の方々は結構持ってらっしゃる?!かもしれないので持ってる方からお借りしてでも私と同年代または下の方々にぜひ読んでいただきたいです。

ボラ山の石塔が建てられる経緯や、そこに携わる牛深の方々の気持ち、海上慰霊の事。この牛深の先人の積み重ねをしっかり受け継いで行かないといけないと私も思っています。

終盤、長良の慰霊を続けてくれていた事を知った長良艦長婦人が後に牛深へ訪れるのですが、その前に取り急ぎおつるおばさんへ宛てた手紙も公開してありました。ここハンカチ何枚も用意したほうがいいですね。最初読んだときは新幹線の移動中だったため人前なのに涙がでるもんだからそれ以上読めなくて困りました、はは。

おつるおばさんが残してくれた慰霊のこころは今でも牛深の方達に残っている。

近年、戦艦武蔵(大和と同型)の沈んだ場所を米資産家が発見し引揚を検討というニュースを見た。
天草-長崎間には同じように沈んだ艦が潜水艦をはじめ複数あるそうだ。数ヶ月前だったと思いますが西日本新聞でそういう記事を読んだ。

ここで日本における沈んだ軍艦の考え方を補足して終わりにします。

日本では沈んだ軍艦は、乗組員方々の慰霊の為、またはその場所がお亡くなりになられた場所ということで場所の特定は行っても、引き上げる事は絶対行いません。艦そのものがその方々の墓標となるからです。この日本の考え方を一部を除くアジア諸国は理解尊重し引き上げることは考えなかった。

もちろん遺族も海底の映像は見たいと思われるでしょうが、引揚は希望しておられません。
この考え方を大事にしたいと私も思います。

軽巡長良が沈んだ場所は海底が砂だったため、沈んだそのままの姿で現在も艦首を天に向け安らかに眠っている。
それはまさしく長良が墓標そのもののようであるとの事。

現在の安保関連法案も同じ。おつるおばさんが残してくれた想いから平和を重んじ、戦争をしないために必要な事を考えないといけません。
米の戦争に日本が巻き込まれるとよく反対派が言っていますが、現実日本の問題に巻き込まれているのは米の方だということを理解しないといけません。
最新ネット世論調査の結果。

ネットは少し右寄りになるというか、興味持って調べたりする人たちが多いのでこういう結果になる。本来ならば一般がこういう結果にならないといけないと思う。それでも憲法改正だったとしたら過半数にはぎりぎり足りませんね。明らかに女性や若い世代はまだまだ勉強不足ですね。


全2回の予定でございましたが、長くなりすぎましたので予告しておりました艦これにつきましては次回雰囲気を変えて公開致します。
私もこの本にもっと早く出会うべきでした。艦これファンも読んでみて!絶対牛深へ訪れたくなるから!

その三→こちら  


Posted by hirok○ at 04:21Comments(2)牛深八景

2015年09月12日

長良の足についてこれる?-牛深第十景その一

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

「絵で見る~」の本についてはみなさんご注文いただき誠にありがとうございます。初版残り10冊ですお早めに!牛深の方は母へ言っていただけるとすぐお届けさせてもらいますm(__)m

今回は人気企画牛深八景の十作目。第十景でございます。題材は題名でお分かりの通り軍艦長良です。牛深に深く関係していて、まとめたいことが多くあるので2回に分けます。

昨日から鬼怒川の決壊でニュースは埋め尽くされています。被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
鬼怒川は群馬・栃木の県境に源を発し、利根川に合流する。流長170㌔。しばしば氾濫を繰り返したので治水工事が何度も繰り返されてきた。

度重なる氾濫被害の恐れから鬼怒と名付けられたのでしょう。

日本の軍艦名には河川名を付けられたものがあります。軍艦鬼怒もその一つ。
軍艦の種類もその用途によって多種に分かれるのですが、軍艦鬼怒は長良型に分けられ長良型5番艦です。(長良と同型、順番で5番目に建造されたという意味)

先にご説明しておきますが私も最近調べましたので軍オタでもなんでもないので詳しいことはわかりません。ただ学ばないといけないことだと思いますので、間違いがあればご教授願います。


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それでは長良について書いていきます。

長良型はすべて河川名で名付けられました。長良型は順に「長良」「五十鈴」「名取」「由良」「鬼怒」「阿武隈」の6艦。
その中でも軍艦長良は型の名前にもなっている様に長良型一番艦ということで現在でも重要度と人気を集める存在。

軍艦鬼怒や軍艦長良と書いてきましたが、もっと詳しく分類したもので表記すると、

けいじゅんようかんながら
「軽巡洋艦長良」または省略して

けいじゅんながら
「軽巡長良」と呼ばれます。

軍艦に馴染みのない方々は軍の船いわゆる軍艦は全部戦艦(艦種戦類別戦艦)と思ってらっしゃる方が多いのではないでしょうか?私も恥ずかしながらそうでした。戦艦大和があまりにも有名すぎてその影響でしょう。

なので長良の事を一番誤用されやすいのが戦艦長良と呼ぶことだと思います。ここだけでも覚えていっていただけると牛深の方はわかってるなぁと思われると思いますので注意して覚えておいてください。よろしくお願いします。

大事なことなので2回言います、笑
「戦艦長良ではなく、軍艦長良もしくは軽巡長良」です!

経歴スペック(新造時)
大正11年4月21日竣工(佐世保工廠)

基準排水量:5170㌧
全長162.15㍍
速力:36.0㌩
兵装:14㌢砲7門、魚雷発射管8門、水偵1機


水雷戦隊の旗艦、主力部隊の直衛や前衛、艦隊後方の索敵(敵軍の位置・状況・兵力などをさぐる)、哨戒(敵の航空機,艦船が一定の空域,水域へ侵入するのを,哨戒機,哨戒艦艇,レーダ,見張り所などを用いて警戒する)などを任務にしていた。

長良川は岐阜県西部の大日岳に源を発し南流して木曽川、揖斐川と並んで伊勢湾に注ぐ。流長160㌔。

岐阜愛知と流れて伊勢湾に注いでいる長良川で、建造時には特別牛深と関係があるわけではありません。
何が関係しているのかというのは先日書いたこの記事の後半部分に載せた内容。

この内容にもう少し詳しいことを補足致します。
昭和19年8月7日に牛深大島沖で米潜水艦クローカー(USS Croaker, SS-246) の雷撃に遭い轟沈。

この写真は艦尾から沈みつつある長良を、クローカーが潜望鏡を通じて撮影したものです。

座標
北緯三十二度十二分
東経百二十九度五十一分
水深百二十七㍍

この轟沈した時は鹿児島から佐世保へ帰る途中だった。このことから長良は牛深沖を素通りしていただけで牛深に寄港したことなんて一度もないんだろうなと思っていました。

事実は違いました。長良は昭和3年12月に第一艦隊第三戦隊に編入され、その後は12年頃までしきりに中国のチンタオ方面で行動し、佐世保港への入港が頻繁でした。この時期牛深港に軽巡長良と軽巡夕張、その他駆逐艦などがしばしば碇泊していました。

「牛深ノ湾内ハ水深14尋(22,3㍍)アリテ、故ニ時々軍艦及ビ水雷艇ノ投錨セルヲ見ル」(我が町より)

湾内の水深は深く、湾の前面は島で視界を遮っていて敵に見つかりにくい上、天草灘の大海に直ぐ出ることができる。軍艦の碇泊には適地だった。昭和の軍測量牛深地図に詳しく一帯の水深が測定してあったのはこの理由からだったんだなと今わかった。

牛深港に長良が来ていたのだ。海彩館から港を眺め、長良を想う。

70年前の目の前の場所には長良がいたのだ。

フェリー乗り場で、見えないけどそこにいるような気がする長良に70年前の牛深の方と同じように僕は万歳ー!と叫んだ。

涙が頬を伝っていた。


新聞記事内にある恭花さんの書です。

ということで第二回へ続くわけですが、この書にある島一春さんの本「天草灘にひびけ鎮魂の譜」を読みました。

涙無くしては読めない牛深の長良物語でした。次回はそこからおつるおばさんをご紹介したり、題名からもわかるように、若者に大人気の艦これの話題なんかボリュームたっぷり長文用意しています。次回読むときはハンカチも御用意ください(TдT)

な・の・で・す・が、牛深第十景なので私が絵を描かないといけなくて、笑。描きはじめてはいますが、まだまだ時間がかかりそうです。

ツイッターでは経過を報告しながらやっておりますのでご興味あられる方はTwitterのフォローをしていただけると描いている途中途中を公開してますので見てやってくださいな!

Twitterアカウントhirok_studio
右のTwitterからでもどうぞ!それではまた次回!→その2



  


Posted by hirok○ at 03:03Comments(0)牛深八景

2015年08月21日

南風吹く港を描く

最近の熊日さんに連日牛深の特集記事が載っている。



「南風(はえ)吹く港から」この題名も好き。

歴史を丹念に聞き取られ纏めてある。物語的。
今朝はハイヤだったですね。

全何話なんでしょう?
ここに登場する中のお一人にお話をお聞きして書き始めたのがこの牛深八景の書籍化された部分。

新聞記者さんが書くとこういう風に伝えてくれるんだって読んでて嬉しく思っています。
書かれた支局長さんは牛深出身の方ではないのにこれだけ調べられて大変ご苦労されたとお察しいたします。
それだけ牛深のことを思ってくださっているんだなっていつも牛深の記事を読んで思っております。

いつもありがとうございます。

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こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

記事内
「加世浦・真浦の岸壁はびっしり埋まって壮観だった」

僕が持っている写真資料の中から一枚出しますね。


対面船津側。加世浦・真浦の写真が無かった。加世浦の岸壁からこんな大型船がずらっと並んでいた。
今の牛深っこたちは想像もつかないでしょうね。

比較のため。現在の同方面。ほんとに船がない・・・


そして赤で囲んだ現在Aコープの場所に江戸時代御番所があった!
ということで、発売間近!

牛深の漁業の原点、ハイヤも江戸時代に生まれました!
「絵で見る江戸時代の牛深」

詳細は↓クリック







  
タグ :牛深御番所


Posted by hirok○ at 10:57Comments(0)牛深八景牛深御番所

2015年02月01日

どうやら牛深ハイヤが本気出してきた-牛深第九景その二

その一の続きです→前回こちら

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

今回は『牛深ハイヤ祭り』についてです。

昭和21年7月21日。牛深に大火災の悲劇が起こる。

それ以前にも牛深では江戸時代の大火災記録はいくつか残っているが、昭和になってからの大火災はこの日だった。まだ牛深は市にはなっておらず市政統合前の牛深町の頃だった。

大東亜戦争の終戦を迎え戦後の混乱期。軍との関係が強かったというお話は烏帽子炭坑(八景その2)のところで記載しましたが、その名残りで軍の石油や燃料用アルコール類が牛深のいたるところに行政管理されず残っていた。
お聞きしたお話によると火元は履物店で下駄のセルロイドに火が付きそこから上記した石油缶などに火が移ったそうだ。そのドラム缶が爆発し付近一帯は瞬く間に火の海と化し中心商業地225戸を失う大火災が起きた。爆炎でたくさんのドラム缶が空高く舞い上がり町民を恐怖のどん底に落としたそうだ。

この火災から1年と半年余り過ぎた昭和23年春。牛深の重い空気を一変させる為、復興と大漁を祈願して『港祭り』が開催される。これがハイヤ祭りのはじまりである。

昭和29年に『牛深市』になり翌30年に今でいう『戦没者追悼式』にあたる『招魂祭』を港祭りと同時に開催。
後、昭和47年(1972年)に『牛深ハイヤ祭り』に改称される。

招魂祭を同時に開催するという事で、今でもハイヤ祭りではうしぶか公園での平和祈念祭や総合センターでの戦没者追悼式が行われているという訳です。大事なことなので明記しておきます。この戦没者とは日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日支事変、大東亜戦争の旧牛深市内戦没者で1231柱(平成27年現在)の慰霊を行っている。この方たちが牛深から出征して日本を守った。だからハイヤ祭りではハイヤだけではなく直接関係ない若い方々もこの式典に参加できなくてもこういうのがあるということを覚えておいて心を寄せて欲しい。



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現在一般的に知られているハイヤ踊りの振り付けを語るのには『牛深ハイヤ保存会』の存在を外せない。
昨年、保存会50周年の記念にその歩みが一冊の冊子になっておりますので詳しくはそちらを御覧ください。少しだけ抜粋転載致します。

昭和36年舞踏家『浦田智美』氏ら舞踏愛好者が『うず汐会』を結成。
後、『民謡保存会』となりこの年の12月に『牛深民謡保存会』と改名し現在の牛深ハイヤ踊りの原型を振り付けをする。翌昭和37年より港祭りに参加され昭和55年に『牛深ハイヤ保存会』となった。

この方達がハイヤを大事にし普及活動されたおかげで今のハイヤ踊りが広まり港祭りという名前が『ハイヤ祭り』になった。

歴代ハイヤ祭りのポスターを見ても面白い。


全部の画像は多すぎて載せれないのでこちらも抜粋です。カラーは数点海彩館に展示されておりますのでそちらで御覧ください。

僕は歴代のハイヤのポスターって好きだなってずっと思ってた。最近の他のところのお祭りのポスターってなんか一見シャレてて良さそうに思えるけど、牛深のは独自に発展してきた感じがあってポスターでさえ歴史を引き継いでる感じがして好き。ずっと変わらずこの流れを希望します。牛深の方は見慣れて飽きているのかもしれませんが一周回ってとても良いと思いません?どこにでもあるようなお祭りじゃなくてハイヤの発祥として特別感あってブレない姿勢が好き。けっこう写真ばかりじゃなくイラスト調のポスターもあるんですよね。もちろん牛深出身の造形作家gajuさんのポスターも好き。牛深を感じるもん。

ということで実は僕も前回公開したハイヤの油絵を描く前に肩慣らしでポスター案作ってたんですよね。
(公開一時停止中)
(クリックにて拡大)
現代浮世絵で気持ち込めて描いた。牛深の歴史を表現しながらハイヤ祭りの伝統とワクワクする賑いを伝えたかった。このブログを読んでくださってる方はこの絵の意味が伝わっていると信じています。天草の方々にはどのように映りますか?僕の画風はお嫌いでしょうか?
実行委員会の方々通年告知用に使って頂けないかなぁ?無償でデータ渡して構わないんですけど☆ミ


今回初の1景内で2つの絵を公開ということになりました。着物は描いててほんとに楽しい。
前回の油絵の展示も31日までで、見に行ってきたよってわざわざご連絡頂いたりして嬉しかったです。
見てくださった方ありがとうございました。絵は人に見てもらわないと意味がないんですよね。今回やっとハイヤという大テーマを纏めることができて良かった。ホッとしました。

定期-宣伝告知-



購入URL↓
http://line.me/S/sticker/1042707

またはクリエイターズスタンプのとこで『牛深』でも『ハイヤコ』でも検索出来ます!

ただいま第二弾申請中!ごばんくんとハイヤコちゃん追加アクションです。かわいいよ、お楽しみに!

  


Posted by hirok○ at 06:12Comments(2)牛深八景

2015年01月22日

どうやら牛深ハイヤが本気出してきた-牛深第九景その一

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

牛深八景の新作『第九景(その一)』でございます。ちなみに書籍化した牛深八景には八・五景(ハイヤ大橋、海彩館)が収録されております。

今回は大テーマの『牛深ハイヤ』で2回に分けたいと思います。
1回めの今回は混同しないように牛深ハイヤ自体について。2回めは牛深ハイヤ祭りについてまとめます。

細かすぎることは伝わりにくいと思いますので、できるだけ簡潔にいきますね。

九州内ではハイヤ節、ハンヤ節。東北、北海道ではアイヤ節、宮城県や茨城県では塩釜甚句とか潮来甚句と呼ばれるこの唄の源流が牛深ハイヤ節と言われている。有名どころである四国の阿波踊りや新潟の佐渡おけさなどもこの影響をうけているとされる。

まずこの説明で有名なものが
『ハイヤ ハンヤは何処でもやるが 牛深ハイヤは元ハイヤ
この言葉は古典邦楽、民謡学研究科権威の町田佳聲(まちだかしょう)先生のお言葉で牛深発祥だとお墨付きを頂いている。

もう少し詳しくご紹介しますと、通天橋の袂にあるハイヤ節発祥之碑から転載致します。(じっくり読まれた事がある方も少ないと思いますので)

 「ハイヤ節」は元禄時代から唄いだされたもので当時の船乗り達が荒波を越える人達の心情を唄いあげたものである。当時寄港船の船乗りを相手に、牛深乙女が大いにもてなし時化ともなれば何処の「料亭」も賑いを見せ三味線、太鼓等その場に有るものをたたいて調子をとり熱狂的に唄い踊り一文無しになる迄遊び通した姿を「酒盛り唄」として唄いつがれたのが「ハイヤ節」だと伝えられ密貿易船と共にサツマ、長崎、北海にと、日本海の暖流に乗って全国の港町に上陸し歴史と共に唄い続けられて来たが之を牛深市恒例の「ハイヤ祭り」として永く後世に残す為この碑を建立するものである。        昭和五十年四月六日

この石碑に彫られている文字自体もすべて町田佳聲先生の文字だそうだ。

補足説明。
ここでも書かれているように元号は元禄(1688年~1704年)。まさしく江戸時代である。幕府五代将軍徳川綱吉の時代。歴史がとてもとても深い。

江戸時代ということでもちろん遠見番所の時代と重なります。密貿易のことは御番所編で数回説明済み。薩摩の密貿易については牛深にとって特に重要事項なので後日御番所編で詳しく掲載予定。

どうやって日本中に広がっていったのかというのは説明すると長くなりすぎるので、限界まで簡略します。

交通手段は主に帆船。牛深から大阪に向かう上下2つのルート船でそれぞれ立ち寄る町々で落とし唄い継がれた。直接牛深へ来てない船も大阪までの航路の重なる場所でハイヤを聞き東日本や北日本まで広がったとされる。これには歌だけが運ばれた為、三味線や太鼓が継承されず現代のハイヤ系民謡はそれぞれ調子や抑揚に各地の色が反映されていてその違いが現代ではとてもおもしろい。

牛深から北へ向かって大阪への航路を持つときに、南風が必要でその南風のことをハエん風と呼び、ハエがハエヤになり、ハエヤがハイヤになった。

歌詞からみても「料亭」の牛深乙女目線でしょう。その料亭の女性が作ったのかもしれない。着物の裾を三角に折り下に来ている赤い長襦袢を見せる着方をして艶を出すのはその名残りだと思う。
当時の「料亭」の女性は博学で頭も良く、仕事柄外部の人間と話すことが多い為知識も豊富だったとのこと。多少の外国語なら話せる人も少なくなかったそうだ。

政府が初めて貨幣を発行した時期で、その貨幣自体を牛深では持ってなく貧しかった。
薩摩の船が暴風がくると内海の牛深港に避難をした。時化待ちのときにその薩摩の船乗りが料亭に通ったということだ。おいしい物をたくさんご馳走してくれる上に、初めての貨幣をくれて、その上面白い他国の話をしてくれる船乗りに対して牛深乙女は真心を込めて接客をしたそうだ。
もうおわかりでしょう。その貨幣というのが新銀でその接客が新銀取坂(第三景)として残っている。
その魅力を知った船乗り達はせっせと牛深へ通い帰りは無一文になったという。
これが歌詞になっているとても有名な部分↓
『牛深三度行きゃ三度裸』である。

全国へ広まったということはそれだけ牛深の町がとても楽しかったということなのでしょうね。


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今回ハイヤをなぜ勉強し直したのかというと昨年末の天草を絵描くコンクールで牛深ハイヤを描いたからです。
その結果はもう本人には通知されているですが私は目指した賞は頂けなかった。力は出し切った感があったのでとてもこれに落ち込んだ。

去年の今頃はもうその絵の構想立ててたなぁとか取材何回もやったりハイヤ祭りの時も資料をたくさん集めたな。牛深への想いをたくさん詰めこんだつもりだったけど力及ばずお恥ずかしい結果になってしまいました(>_<)

牛深の人に認めてもらいたいと思っているのに僕の恋はなかなか成就いたしません。
牛深の方々に見てもらいたいので恥を忍んで公開します。この絵が僕の牛深第九景『牛深ハイヤ』です。

クリックにて高画質

まずデッサンで構図決めをするときに3枚の絵を描いた。
長い間伝わっている漁師さんたちの元ハイヤ、と保存会の方々のハイヤ、と一番新しい世代の牛高郷芸部のハイヤ。
その中でこの2枚を油絵にした。元ハイヤから牛高生までの継承する文化が美しくて表現したかったからこの2つを一つの作品として余計なことは言わず『牛深ハイヤ』と題した。


幸いにもすでにこの絵を欲しいと言ってくださっているがこの絵に箔を付けてあげれなくてほんと申し訳なく思う。
僕は人物画専攻だったのでこれが限界に近い。この路線では天草ではおそらくこれ以上の賞を頂くことはできないと思う。目標を見失って心に穴が空いたようだった。

あまり暗いお話に伝わるといけませんね。でもその気分も持ち直しそうです。
また違う絵を全国規模の大きな賞に応募してたのですがその審査結果が速達で送られてきた。はいはい、どうせダメだったんでしょ?って見たくないって思いながら見た。もちろん受かるわけはないのですが、審査員の評価の手紙が入っていた。こういうのは大抵問題点の指摘などが多いのですが、古風でありながら現代にも通用する画風であるとか好感が持てるとか仕上げが丁寧であるとか勇気付けられる事が書いてあった。

こんな僕でも評価してくれるプロもいるんだなと描く気が起きなかった心にまた光が灯った気がした。

これからおそらくハイヤの絵はたくさんたくさん描くと思う。
その処女作が今回のハイヤの絵。
その『牛深ハイヤ』は今週末1月25日(日)から31日(土)まで牛深総合センター4階にて来月は本渡でも展示されます。実際の油絵を僕の筆の一筆一筆に込めた牛深への想いをどうかみてやってください。お願いします。

ということで次回の八景は牛深ハイヤ祭りについて書きますね!長文お付き合いありがとうございました。




  


Posted by hirok○ at 01:53Comments(4)牛深八景

2015年01月01日

我輩は初詣である

あけましておめでとうございます。

旧年中は大変お世話になりました。ありがとうございました。
今年もよろしくお願い致します。

ということで初日の出を拝む為に熊本城へ行って参りました。
天守閣で明けるのを待ったのですが、残念なことにぶ厚い雲に覆われ初日の出は拝めませんでした。

その後天守閣を降りたら猛吹雪w↓


先着2015名には盃がプレゼントされました。写真内左下。


そして恒例の初詣に行って参りました。

昨年の大きな厄を落とすべくなんと今年は熊本城周りで五社参りをしました!
御朱印はこちら↓

ここまで並ぶと爽快。今神力すごいだろな俺。

昨年の初詣でも書きましたが一番右の熊本大神宮が熊本のお伊勢さんと呼ばれる神社で、熊本の天照さまの御札は伊勢神宮からこちらに来てここからすべての熊本の神社へ配られます。一枚一枚の御札に上下関係はありませんがなんか熊本がひとつになってる大きな力を感じます。

今年はハイヤコちゃんの痛絵馬を描きましてそれは加藤神社で奉納してきました↓

牛深復興も入れておきました(^^)


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後半は神社つながりのお話。
マンガ日本昔ばなしというアニメを覚えてらっしゃる方はいますでしょうか?

そう。子供に見せたい番組としてよく名前が出るあのアニメの事。

かく言う私も大好きだったアニメであるのですが今見てみると、やっぱり内容がとてもいい。日本文化を子供に伝えるものとしては素晴らしい教材だと改めて思った。

その中こんな動画を発見致しましたのでご報告致します。

題名『鳥居を持ってきた乙姫様

どこかで聞いたような・・・って思われた方は私の牛深八景を読んでくださっている方のはずw
第六景で恵美須神社を描いた。そこからその後牛深にまつわる浦島伝説について伝わっている民話を紹介した。
詳しくはこちらの第六景部分

そこで簡単にご紹介したお話がアニメになってた!これは驚きと嬉しさでご紹介しなくてはと思った。
早速ではございますが御覧ください。後に解説補足致します。


MNMB 鳥居を持ってきた乙姫様

この昔話がどこの昔話としてアニメの中で紹介されているというと
『熊本県のずーっと南の方に大島という離れ島があってな』という始まりだった。画像はこちら↓

これはだいぶ簡略化されている地図ではありますが、補足するとこの大島とは牛深の大島の事だ。

そして大島のイメージで使われている画像がこちら↓

あれ?これももうお分かりですよね。
この形は私のブログでも何度も登場している龍仙島でしょう。比較の為の龍仙島↓

おそらく間違いない。この辺りはごちゃまぜに物語を作っているのでしょう。


この物語に出てくる乙姫様。
何度も言いますが牛深に浦島伝説は確実にあった。八景を描くまで私が知らなかっただけw

お話の中では何の神様が祀られているのかはわからない。お社としか表現されていないからであるが、漁関係の神様であるので恵美須神社で間違いではないでしょう。

鳥居を立てて豊漁となり祝いの酒盛りが始まります。→これ恵美須祭り。
ここで踊られたもの。

アニメの中では熊本とわかりやすくしてあった為か認知度の高いおてもやんになっていた。

これはもちろん、磯節やハイヤということでしょう。

牛深の浦島伝説があの『マンガ日本昔ばなし』にもなっていたとは、感動(TдT)

最後に新年縁起良くアニメの中で豊漁時に帰ってくる船の絵で新年のご挨拶とかえさせていただきます。

実際の大漁旗を掲げた牛深の船は、お正月牛深のみなさんのブログでたくさん掲載されることでしょう。それを楽しみに失礼致します。

改めまして今年は皇紀2675年、平成27年明けました。
今年もよろしくお願い致します。              元旦










  


Posted by hirok○ at 11:37Comments(0)牛深八景神道

2014年10月15日

昭和天皇に日本の心を見た-その1

その日は台風18号が接近していてあいにくの空模様、昨夜からの雨がより一層強くなっていた。

東京観光目的であれば最悪の状況かも知れないが、それが逆に私にとってはいい結果を生むことになった。

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

六本木で日本一の夜の繁華街を楽しんでホテルへ帰ったのは朝3時だった。

その4時間後にはホテルで朝食を済ませ、チェックアウトをしたのが8時前。

赤坂サカスを見上げながら東京メトロに乗り一人皇居東御苑へと向かった。


この先に両陛下がいらっしゃる、そう思うだけで胸が熱くなった。

今回東御苑へ向かったのは先日から書いていた『昭和天皇実録』の閲覧のためだ。
北桔橋門をくぐり宮内庁書陵部を目指す。



宮内庁職員さんが一階入り口で受付をされている。第一回閲覧に間に合った。
上の写真でわかるように1回の閲覧は50分と決められていてしかもその一回で閲覧できるのは最大18人までと決められている。

ここでこの『昭和天皇実録』とはどういうものか簡潔に補足しておきます。一言で言うと昭和天皇のご生誕から崩御の後大喪儀が行われるまでのご公務からご一身に関するすべての事項を確実な資料を元に編纂され叙述された真実の歴史書物だ。約25年の歳月をかけ全62巻1万2千ページに及ぶ大冊である。

(宮内庁内を撮影は出来ませんのでこの画像のみ拾い画です)

これだけのものを50分で閲覧するのは不可能なのはお分かりでしょう。
一回では不十分で再閲覧したい場合は、入り口に戻り並び直し定員内であれば再度閲覧できるというシムテムらしい。

らしいと書いたのには理由があり、始めにそういう注意事項をご説明頂いたのだが、当日は台風の雨の影響で閲覧希望者の訪問が少なかったのだ。傘を差し雨に濡れながら熊本から来たという僕に宮内庁の職員さんの対応は優しく、1回目の閲覧のまま、そのまま延長されていいですよとのお言葉に甘え私一人3回も延長させて頂きました。

それでも一応全ページめくりましたが特に読みたかった所以外は斜め読みです。
今回いわゆる歴史教科書を変えるまでの特別新しいことは記載してないとの報道ではありましたが、とても興味深い内容がたくさんあった。全部は書けないので特に書きたいことだけで申し訳ありませんが失礼して書かせていただきます。

昭和天皇が幼少の頃どんな遊びをされていたとか、夏目漱石を愛読していたとか、関ヶ原の戦いの歴史を学んでる際には裏切り者を嫌うという旨を仰せになるなど。さらに皇太子時代にはヨーロッパを訪問、第一次世界大戦の激戦地を訪れ直接的には表現されないが反戦の気持ちを大きくされているのが十分に伝わる。

そしてかなり省略しましたがみなさんご興味あられるでしょう大東亜戦争に入ります。
もちろんこの辺りの記載事項では第二次世界大戦なんて表現はされておりません。少々ご説明致します。
当時の戦時中日本国内ではこの戦争の事を大東亜戦争と呼んでいました。私達の世代もおそらくもっと若い世代も現代も第二次世界大戦と歴史教科書は教えています。これは戦後日本に自虐史観を植え付けるために米(GHQ)が印象操作の一環で行ったWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の一つなのである。
なので正しい日本の歴史をご存じの方は第二次世界大戦などとは呼ばず大東亜戦争と呼びます。みなさんもお気を付けいただきたい。

書きたいことがたくさんありすぎてまとまりがなくなってしまいそうですが、今回伝えたいことは長くなっても全部書きたいと思います。

今でも戦争責任を昭和天皇にあると思われている方たちにお伝えしたい。
戦後天皇陛下は人間宣言というものを出されます。それはそれ以前の天皇という立場は神だと崇められていたからだとお思いでしょう。ですがこの戦前はじめ近代史の天皇はどうでしょう?実際には何一つ自由のない生活を強いられ政治的役職も形だけの物に過ぎず、国の方針を決める御前会議ですら発言も出来ない事が多かった。これは専制君主ではなく日本が立憲君主を敷いていた為だ。ゆえに昭和天皇に戦争責任はないのである。
戦前天皇のことを現人神だと呼んだ。ここで気付いて欲しいのはこの『現人神』という言葉の相手は『人間』に対して使う言葉であり、ほんとの神様だとしたらその神様に対して現人神と使うのはおかしいでしょう?だから戦後人間宣言を出されますが戦前も人間だということの証明になります。戦勝国を納得させるため当時の日本政府が巧みに守りぬいた国家元首のあり方ではないでしょうか。戦前も戦後も天皇陛下の存在は何も変わってはいない。この想いにも胸が熱くなる。

そして実録の内容に移る。
満州事変についてもまず外交での解決を望んでおられ、陛下の意志に反し戦闘が始まって占領した部分についてもそれ以上拡大するなと意志をお伝えになる。その後も何度も陛下が持つ海軍統帥権を行使しようとしてでも戦争を食い止めようとしますが政変の原因にもなる恐れがあり国策決定は内閣の仕事だと逆に封じこめられます。

そして大東亜戦争のまさに開戦の御前会議である。
期限付きの外交交渉がうまく行かなければ(米国の不平等ハル・ノート提案を受け入れるかどうか)開戦を決意する御前会議。枢密院議長が『国民は日米関係が最悪の状況に至らないよう願っている』と発言。その上で『今回の要領案は一見すると戦争が主で外交が従のように見えるが、どこまでも外交的に打開に努め、やむを得ないときに戦争をするものと解釈する』との見方を示した。海相も同調。陛下は自分の前では外交重視だと思わせておいて戦争を始める気なのではないかとお察しになられたのだと思う。一言も発しない両統帥部長に向けて陛下のお気持ちの御製をお詠みになる。御前会議での天皇陛下の発言は慣例を破った特別なものだった。

『四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん』
意味は
「私たちの望みは四方の海が平和につながることです それなのに なぜ波風が激しく立ち騒ぐのでしょう」

昭和天皇が戦争したいと言っている様に伝わりますか?戦争を始めるようにおっしゃっていますか?

それでも大東亜戦争は始まります。
意思に反し始まってしまった。それ以降は日本国民の安寧を願われます。
山本五十六連合艦隊総司令官の出陣の挨拶には無事凱旋を祈ると特に伝達された。しかし山本司令官は最前線で戦死。訃報をお聞きになると陛下はお一人ご文庫にて籠もられ終日お慎みなられた。


第二回へ続く・・・こちら


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私が実際見てきた昭和天皇実録を皆さんにもお伝えしたくてまとめていますが、また長いのでスルーされちゃうかなw

次でまとめきろうとは思っていますので、ぜひまた読んでいただきたいです。

そして牛深八景についての続報です。
最近でもいまだお問い合せは頂いており、ただいま受注生産につきお時間は少し頂きながらお渡ししている状態です。すぐ欲しいと言われる方は海彩館の観光案内所までお願いします。
あと、牛深町内であれば配達も可能地域のところもありますのでお問い合わせください。

お申込みをネットからされている方でこちらのメールがおそらくドメイン受信指定などでご連絡出来ない方が数名おられます。再度解除してご連絡いただくか牛深担当(チラシなどに記載)にご連絡していただくか海彩館へのお求めをお願い致します。

図書館への配備も完了した旨の礼状も頂きました。お世話になりました。
牛深図書館2冊、中央図書館1冊、河浦図書館1冊だそうです。

お近くの方はぜひ。






  


Posted by hirok○ at 04:34Comments(0)牛深八景hirok個人的天皇論

2014年10月03日

見慣れた場所に物語があった・・・

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

先日の熊日さんに取材を受けた記事が今日載りました。



熊日さんありがとうございましたm(__)m
記事の大きさ感激(・ω<)
記事の内容はすごいかっこいいな(*´∀`)
『見慣れた場所に物語があった』( ̄ー+ ̄)キラリン
写真は恥ずかしいな(TдT)

そしてなんと市議会議員さんはじめいろんな方々のご協力により、
牛深観光案内所での取り扱いがされるようになりました。

海彩館内の観光案内所です。現在準備していた部数はおかげさまで完売いたしておりまして、今週末は間に合いませんが来週の月曜10/6日からそちらでも購入ができます。
常時置く部数は少ないですので読んでみてもいいよと思われる方はぜひお早めに。

天草宝島観光協会本渡本部さま並びに牛深支部さまご協力ありがとうございます。

併せてお詫びなのですが、本日昼間は不在にしてしまったため記事を見てご連絡頂いた方全員とお話出来ていません。
しかも先日から言っていた東京に明日から行ってきますので、数日間また電話に出ることが出来ません。
大変申し訳ございません。

台風来ていますし、東京でもずっと雨だと思いますが一応行ってきます。帰り飛行機飛ぶかな?
台風ひどそうなら早く帰ってきて商売しろと言われましたw

でも牛深八景は商売のつもりでは無いですしただ知ってもらいたいという気持ちのほうが大きいかな。

それにしてもこのタイミングで熊本離れるかwって話ですよね。
ちょっとだけ私も予定ミスったかなw

ということで東京のお土産話もお楽しみに!

これで牛深八景も一段落しそうですね。
購入していただいた方々誠にありがとうございました。牛深の人たちはほんとにみなさん暖かかったです。
これからもよろしくお願いいたします。
ハイヤコちゃん





  


Posted by hirok○ at 20:56Comments(2)牛深八景

2014年09月24日

YOU!弾丸ツアーしちゃいなYO!

牛深八景のPR目的の為、昨日と今日弾丸で牛深へ行ってきた。

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

思っていた以上の成果でとても充実した2日間でした。

まず最大の目的だったのが熊日さんからの取材を受けることだった。
支局長さんとのお話が面白く、もちろん牛深八景のお話もたくさんさせて頂きましたが、その他牛深に関するアイデアなども長時間情報交換させていただきました。

新聞記者の方は何でもご存知で視点が鋭いのでお話を聞くのがほんとに面白い。取材を受けるのは私なのに逆に質問しちゃったりして申し訳ありませんでした。とても楽しくて時間があっという間でした。大変お世話になりました、ありがとうございました。

写真撮られるときだけ慣れていないものだからカメラ見たら緊張しちゃっいました、笑。そこだけ心配。
近日載せて頂けると思いますのでみなさんも私の記事見てやってくださいm(__)m

このブログも以前から見てくださっていたとのことで、天草自治基本条例が廃案になったことを教えて頂いた。


うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

やりましたね!天草市の方々!

そうなんすよ。一回目に書いたように自治基本条例なんて白紙に戻して、別に作んなくても問題ないんですよね。
むしろ書いていた問題点をわからないように認めさせる目的の条例だったってこと。

熊本市よりも賢かった天草市。一安心ですね。



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そして牛深八景を持って牛深図書館へ寄贈に行ってきた。

現館長さんや元館長さんたちとお会いしてそこでも有意義なお話をして頂いた。
昨年の天草を描くコンクールでは賞をいただきまして有難うございました。今年も出品の予定にしておりますが間に合わなかった時は申し訳ありません。

お話を牛深八景に戻して、そこで決まったことを公開しておくと、天草市内の全図書館へ寄贈させて頂きます。

天草市アーカイブス、本渡歴史民俗資料館では天草の出版物を集めているそうでそこへも寄贈(歴史民俗資料館は帰りに寄ってお渡ししてきました。本渡の方はそちらで無料でご覧になれます。)

そして牛深小、中、高へは来週中には寄贈予定。子供たち読んで牛深をもっと好きになってね!

その他施設はまだ交渉中で未決定です。期限はないのでゆっくりやりますね。

ご連絡ついでに、旧牛深市内は今週日曜に折込広告が入りますのでぜひ御覧ください。そして応援していただけたら嬉しいです。

予想以上の牛深の方の協力が暖かく頑張る意欲を満タンに補充できた帰郷でございました。

↓ ↓ ↓ お申し込みはこちら↓ ↓ ↓ 







  


Posted by hirok○ at 03:08Comments(0)牛深八景

2014年09月15日

「温故知新力」を鍛える

『古人の跡をもとめず古人のもとめたる所をもとめよ』

松尾芭蕉「風俗文選」より

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

松尾芭蕉は日本の伝統美にたつ俳句を数多く残し神道を重んじた。

昔の良き人の成果に至る過程や状況、思惑に通じることで、古人の心や考えを知るという意味。

ほんの少しでも私は牛深の古人に近づけたかどうか・・・
本日私の牛深八景の事前予約分を発送しました。

ご予約頂きました方大変有難うございました。もう私はその方たちに足を向けて眠れません。


牛深に還元する活動をやっていくモチベーションがさらに高まりました。

そして熊本城へ行って来ました。敬老の日ということでたくさんの人でした。
観光客が多くてなにか牛深でも使えることないかなぁっていつも考えてます。

城彩苑も人がいっぱいでご飯も食べるのに随分待ちました。
こんなに観光客がいるのはやっぱ熊本には熊本城があるからなんだ。

歴史に根付いた観光施設というのは人を呼ぶ。しかもそれを大事にしようとする人がいる限り廃れたりしない。

二の丸広場に行くとこちらには家族連れがたくさん休まれていた。熊本県民の憩いの場とは言うけれど、そこには沢山の人の幸せがあるのを実感した。熊本城はそういうあったかいところが好き。


県美を通り、護国神社へ参拝してきた。
日本のために戦われた英霊に対しいつも感謝の気持ちを忘れてはならない。

こちらの神社境内には以前私が日本一の画家だと思っている藤田嗣治のお話を書きましたが、その藤田の戦争画がもちろんレプリカではありますが4作飾ってある。

とても有名なアッツ島玉砕などその雰囲気に圧倒され恐ろしさまで感じてしまうほど。
それだけたくさんの人々の想いが集まっているのが伝わる。



来月東京に行くと書きましたがもちろん靖国にも行って参ります。
何はともあれ無事牛深八景を発売することが出来たことを嬉しく思い、関係者の方に感謝申し上げます。






  


Posted by hirok○ at 19:05Comments(0)牛深八景神道

2014年09月12日

『そうだ東京へ行こう!』と思った昭和天皇実録



昭和天皇実録が公開された。わたしにとって今年一番の最大関心事だ。
わずか24年の編纂で公開されたことに驚き、黒塗りや伏せているところが無いことにも不安を覚える。
もっと大事なことは記載されていないということだろう。残念な気持ちも少々。

今だに地元牛深でも昭和天皇と戦争責任を結びつけよく思ってない方たちのお話も聞く。
熊日の記事『私と戦争』のお話を読んでみてもその実際の戦争経験者の方でも戦争終結の玉音放送ですら、天皇陛下の放送だとはわかっていても何を仰っているか細かい内容まではわからなかったとのお話だった。一般国民の理解度は大部分がこのレベルだったのであるのにも関わらず。

戦後70年を迎えようとしているこんにち、当時の本当の歴史は少しずつ開示されてきた。
実録の内容が熊日では毎日特集で公開されている。これは日本人ならみなさん知っていて当たり前の歴史になるべきだ。

上に載せた一面の記事の見出しは『君主の苦悩』と書いてある。
連日の記事を読んでみても開戦前、昭和天皇は戦争回避に尽力され、開戦後も一貫していち早い終結を望んでいらっしゃる。

戦争がしたいなんて微塵も思ってらっしゃらないのがわかる。

私の同世代やもっと下の若者は昭和天皇の事をイタリアのムッソリーニやドイツのヒットラーと同じ様に思っている人もいると聞く。海外でもそのような認識が一部ではあるそうだ。残念でならない。

来月その実録を東京まで閲覧に行ってくる。

*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

牛深八景第一弾のお申込みありがとうございました。最後の駆け込みも頂きまして無事予定を越えました。
誠にありがとうございます。一安心いたしました。
ハイヤコちゃん

これからは随時受け付けの形をとり、その都度発送させて頂きますので、読んでみたいと思っていらっしゃる方がいましたらいつでもお申込みください。

このたびは誠にありがとうございました。引き続きご指導御鞭撻の程よろしくお願いいたします。



  


Posted by hirok○ at 17:10Comments(0)牛深八景hirok個人的天皇論

2014年09月07日

秋だ!一番!天検祭り!八景祭り!

天草観光文化検定第2回受付中!

昨年お取りになられてない方はまだ間に合う!!!

今回上級はどうなんでしょう?年末頃なのでしょうか?

ということで今回の初級問題も見てみました。面白いですね。


さっそく2問目に牛深の問題。嬉しっ(・ω<)
まだ開催中なので答えは書きませんがもちろん私の第八景の記事にはすでに書いてありますね!
第八景
そうそうこれ大事!

郷土史家の方たちと同じくわたしも個人的には御番所が牛深にとっては大事な歴史なのだと思っているのですが、出題されたことはありません。いつの日かこの天検にも牛深の歴史として御番所の問題が出るのを夢見て私も一から勉強いたします。いや、必ず出題される日が来ると思っています。←御番所の話の第一回を早く書けよってツッコミはなしでwただいま時間の余裕が全くなくておそらく月末か遅くても来月中に書けるかなと思っていますのでそちらもお待ちを。

天草を愛する方々!初級は解答を送るだけで認定証もらえますので簡単!ぜひみなさんもご取得くださいませm(__)m
問題はこちら
*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.

牛深八景の書籍化の件でのご報告です。
いろいろご協力してくださる方がいらっしゃって嬉しく思います。本当に有難うございます。

あー!!かたらんなさんのTOPに

バナー告知されてるーーーー!!!
かたらんな運営さま(TдT)ありがとうございます。バナー画像まで作って頂いて大変嬉しく思います。
お手数おかけしました。

お申込みしていただけた方大変ありがとうございました。もうしばらくお待ち下さい。そしてあと、もう少しで30部になりそうです。あと少し、あと少しだけ応援して頂ける方いらっしゃいませんでしょうか?ぜひとも赤字だけは避けたいなぁと思いますので、よろしくお願いいたしますm(__)m

お申し込みはこちらです↓

お申込み

↑からお申し込みが出来ない方は
hirok@kaw-dp.bizまでお問い合わせください。
(kaw-dp.bizのドメインメールが受け取れる環境でお問い合わせください)

そしてお申込みいただいたかたからのご提案を頂いたのでこちらでご説明をさせていただきます。
今回販売するのは32ページと少ないですが表紙の付いた画集タイプなのですが、そのままかサイズダウンするかはわかりませんが冊子タイプの印刷物を作ってみてはどうかということでした。

その場合は費用が随分安くなりますし、印刷部数によっては一冊300~500円程度に抑えられるとのことで、それを牛深の観光関係の宿泊施設や物産館に配ると、牛深に来ていただいたお客さんにまた牛深の魅力を伝えることが出来るのではないか?というご提案でした。

今回発売する牛深八景がどのように人に映るか事前に感想を聞いてみたかったので、牛深と関係ない方にも数人渡して読んで頂きました。読んでいただいた方の感想に、牛深に行ってみたくなったとか、この本を持って私も牛深に行きます!と言って頂いた方もいた。

これが最大の目的でもあるかもしれないなって思った。

宿泊施設やホテルにはたいてい聖書が置いてあったり、聖書があるなら日本のホテルなのだし、日本の起源である古事記を全国のホテルに置こうではないかという運動も起こっていると聞く。そんな感じで牛深の宿泊施設に置いたら間違いなく牛深を好きになるとまでおっしゃって・゚・(つД`)・゚・

全部の客室とかまでは出来ないにしても各数冊ずつでもお配りできたらいいなぁと私も思いました。

どれくらい費用が掛かるかわからないけど、少しならスポンサーになってもいいとおっしゃって下さった。
少ない人数の力ではなくわたしは牛深のこと思う人みんなで出来たらいいなぁと思う。

ということで
『牛深八景を宿泊施設に置こう』プロジェクト始動!
置いてもいいよという宿泊、観光関係者の方ご連絡お待ちしております。準備出来次第お送りいたします。

申し訳なく言い難いですが、もちろん肝心なスポンサーも募集いたしております。一口1000円ぐらいの寄付をして頂ける方いらっしゃいませんでしょうか?お名前公表して良ければこのサイトもしくは印刷内にも記載させていただきたいと思います。
私の経費は0で構いません。すべて印刷代と送料に回して配布させていただきます。

何卒牛深八景よろしくお願いいたします。  


2014年09月01日

牛深八景書籍化法案-参院も通過(私の中で)w

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

いやぁ、随分準備に時間がかかってしまいました。。。(*´σー`)エヘヘ


価格は¥1700-(税込¥1836-)
子供たちに読んでもらいたいのにこの価格になってしまって申し訳ないです。自費出版をいろいろ試行錯誤したのですがA5サイズですが全32ページオールフルカラーと印刷部数も少ないですしどうしてもこうなってしまいましたm(__)m

今回は第一段発売ということでネット予約販売のみです。
一般発売では税込2000円前後になると思いますので、9/14日までこの価格で受け付けいたします。このブログを見てくださっている方へのせめてものお礼の気持ちです。

一応過激なところは全カットで改編、再構成されておりますので追記分も含めまた新しく読んでもらっても楽しめるものだと思います。今のところカット無しのこのブログはそのまま残しておこうかなと思っています。個人的ブログなので優しい目で見逃してほしいなぁなんてね。


私自身でも牛深の小、中、高と数冊寄贈させていただこうと思っております。
応援して頂ける方、子供たちにプレゼントしてあげてください。必ず牛深をもっと好きになってもらえると思っています。(正直30部以上売れないと赤です(;_;)それ以上売れた場合は今後の活動に還元いたしますので)

いろいろお手元に届くまで不手際があるかもしれませんが何卒よろしくお願いいたします。
お申し込みはこちらです↓

お申込み

↑からお申し込みが出来ない方は
hirok@kaw-dp.bizまでお問い合わせください。
(kaw-dp.bizのドメインメールが受け取れる環境でお問い合わせください)

それでは牛深に元気を届けるため何卒よろしくお願い致します。
  
タグ :牛深八景


Posted by hirok○ at 23:45Comments(0)牛深八景

2014年07月22日

牛深八景書籍化法案-衆院通過(私の中で)w

私事ではございますがこのブログの本を出版いたします。

ただいま編集者を交え改変再構成いたしております。購入場所や購入方法なども調整中です。
お取り扱いしていただける店舗などございましたらご相談させてくださいませ。
かたらんな運営さんでは承諾済みです。

全32P オールフルカラー ブログ未掲載記事収録。今後の牛深活性化プロジェクトなどなど。
発売時期は出来上がり次第ということになりそうです。一応今夏ということにしておきます。遅くなる時は申し訳ございません。

もともとは自分自身を理解するために始めた牛深八景ですが描き上げてみると牛深の子供たちに読んでもらいたいなって思うようになりました。

生まれた場所の歴史を知って子供たちにもっと牛深を好きになってもらってそれが牛深を元気にするんじゃないかなと思います。

そして牛深のお土産の一つとして仲間に入れてもらって牛深は凄いんだよって訪れた方にも知っていただけたらいいなぁと・・・そこまでいけたらいいなw

できれば牛深の方には応援してほしいです。
よろしくお願いいたします。


  


Posted by hirok○ at 17:52Comments(3)牛深八景

2014年06月19日

恋する牛深八景

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

このブログの書き始めは2012年09月28日でした。
それから1年と8ヶ月ですね。

このブログを書くまではそんなに頻繁に牛深へ帰ることもなかったんですけど、それ以降何度も帰りたくて時間を作っては帰りました。

もう一度自分で思い出し簡単に振り返りたいと思います。


第一景→こちら
最初に描こうとしてたところは違う場所だったの思い出しました。結局その場所は八景まで描いてみても入っていませんでした。お話をお聞きしながら実際歩いてみて描きたいなぁと思った場所は想像とは違っていたということでしょう。まぁいつかその場所も描くことになると思いますけどね。


第二景→こちら
せどわという細い道のことはよく紹介されているのは知ってました。だけど残念ながら海に面した場所では全国あちらこちらにありPRするところはそこではなく、そこに道の名前まで付いていたというのが特別に思えおもしろくここまで紹介して欲しいという提案をしました。
この点は牛深のパンフレットなどに記載されるようになるまで私は言い続けようと思います。

第三景→こちら
江戸時代から昭和に入るぐらいまで牛深のかつお節や干鰯は大阪と取引していたということは牛深の方々はご存知のことだと思う。牛深の商家の末裔家には当時の古い家具が残されていて、その品質の高さに牛深の造船業が盛んだったためその船大工たちが作ったのだろうと思われていたのだが、後に大阪の家具屋が作ったとわかる証拠が見つかったことに裏付けされたそうだ。
かつおは関西のうどんの出汁に、干鰯は綿作の魚肥としてとても重宝されたそうです。今の関西のうどんの味は牛深の鰹で出来ていたのではないかという歴史。牛深出身で今関西にお住みの方はうどんを食べて牛深のことを思い出して欲しい。
そして何より、江戸時代の通貨は江戸中心は金(きん)、上方中心(関西)は銀で値段が付けられていた。
これは金と銀どちらが本位でどちらが補助かという優劣が付けられていたわけではなく国内で使われるお金(かね)が二種類存在したといえばわかりやすいだろうか。日本国内で円とドルのような二種類のお金が西中心と東中心で別れ使われていたようなものといえばもっとわかりやすいかな。

三景で描いた新銀取坂。銀という名前が残っているのは大阪と取引をやっていた証拠の一つではないか。

牛深の先人は遊郭のことを大きな声で言って来なかった。それには時代とはいえ悲しい歴史もそこにあったから。だから私もそれを受け継いでこれから先も広めようとは思わない。だけど避けれない歴史もあってその代わりこの新銀取坂のエピソードで牛深の女性の、男性を立てながらの賢さやしたたかさを残したいという想いでした。

ちなみに松の葉を集めていたのは新銀取坂と加世浦公園の中間辺りに船たで場という場所がありそこで船に付く虫を払う目的で火で炙っていたそうですがその為に集めていたそうです。

第四景→こちら
昭和23年に描かれた加世浦公民館にあるあの絵があったから比較のために描けた。
これはほんとおもしろい経験でした。
写真で比較することはあるかもしれませんがそれでも面白いのに、牛深を絵に残してくれてたことがうれしく、こんなこと他でやりたくてもできません。66年の時を経てその絵を描かれた方に感謝、それを保存されてきた地区の方たちにももちろん感謝ですね。
そしてさらに面白くなる。後に手に入れたのがこの絵。

藍より青くで周一の父・村上周造役を演じられた佐野浅夫さんが牛深を訪れたときに描かれた。
1972年の作。ということは順番で言えば公民館の絵、佐野さんの絵、私の絵ということになりますね。佐野浅夫さんといえば私の年代は水戸黄門でよく知っています。この絵を見るとやはり泳いで競い合った島は戸島になるんだろうな。まきしゃん達が駆け付けた防波堤は一文字防波堤で間違いないかも。それにしても戸島まで泳げるものなのだろうか?昔の人達は泳いでいたのかな?だったらびっくり。
あ、ちなみに藍より青くで実際使用された台本もゲットできました。
いろいろ書き込みもされていますので機会があれば公開できればいいなぁと思います。



第五景→こちら
べざいてんが美しくてときめいた。
確認はしておりませんが埋め立てられはしたものの弁財天さまは今もいらっしゃるとか。
場所が残っているとしたらぜひ行ってみるべきだな。うん。
磯節も元ハイヤを踊られる加世浦恵美須会の方たちが踊って唄われるのも拝見させて頂きました。
通天公園での私の子供の頃のエピソードが今の私に多大な影響を与えたということを、私の親はこれを読んで初めて知ったそうだwわたしがいかに幼少期恥ずかしがり屋で自分の気持ちを外に出さなかったかということだろう。だけど自分の心のなかには大きく残っていた。

第六景→こちら
龍仙島のことを何も知らないに等しかった。
調べていくうちにとても大事だとわかった。

龍仙島や恵美須神社、旧牛深小校歌から浦島伝説が牛深にあったと書いた。
のちに牛深に伝わる民話をいくつか聞かせてもらった。その中にこんなお話があった。

簡単にまとめます。
牛深には船祝いと言って仕事を一切休む日があり、ご馳走で一日中酒盛りをするのですが
その日に掟を破り一人のいやしい漁師が薪を独り占めしようと拾いに海岸へいく。拾いながら洞窟の近くに行くと中で酒盛りをする神様たちを発見する。神様もこの日にまさか人間がここに来るとは思ってもおらず驚く。竜宮様と乙姫様がお見えになる前祝いをしていた。このことを誰にも言わないという約束で代わりにお酒の湧き出る魔法の杯をもらうが、案の定、村でばらしてしまう。その後その杯で酒を飲むと舌がしびれ話すことができなくなるというお話。

もう一つ。
唐津の石工が鳥居を船で牛深に運んできた。だがこれを注文した覚えのある者がいない。石工はお代はもう頂いているので置いていくという。
そこに白衣の乙姫様が現れた。信仰心のある正直者の為に神様が注文したとの事。その鳥居を建てたことにより大漁が続き人々の暮らしは楽になり、暴風が吹いても船の事故が無くなったとというお話。

この二つの民話がダメ押しでしょう。牛深には浦島伝説が確実にあった。恵美須神社が浦島太郎を祀っていてそして牛小校歌に浦島のメロディを載せた。


第七景→こちら
この瀬崎の辺りはたくさんの方に想い出があると思う。昭和の歴史を感じる人は多いだろう。
そこに江戸時代の歴史とモーニング娘で現代の歴史も付け加えた。
先日の熊日に直接は関係しませんが最近中国が遣隋使の時代に使っていた唐船を覆刻させたとの記事が載っていた。その唐船がこちら↓

私がお話をお伺いしている郷土史家さんは江戸時代に長崎に来ていた唐船を元に瀬崎に繋がれている唐船を描かれた。
時代は違えど帆部分が折りたたみ出来る点や構造が似ている。これを見て心が踊った。
瀬崎のその場所に立って江戸時代の唐船が繋がれているのを想像してもいい、モーニング娘がここに立ったって思ってもいい。そんな風に思っていたらここに歴史説明板があってもいいなぁと思いました。どうでしょうか?

第八景→こちら
炭鉱の時代は短かったがこれも牛深の歴史だった。
そして龍仙島。東シナ海に沈む夕陽と二つの大事にされてきた歴史。これもまたとても魅力的だ。


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こうやって私自身牛深をいろんな視点で見直す事が出来て、新しい発見ばかりだった。
描き始める前の自分と今の自分は別人であるぐらい歴史を知ることが出来た。
まだまだ観光資源たくさんあるじゃんってうれしく思った。これにまだ御番所が残っている。

改めて、お付き合いしていただいたこれを読んでくださった方々に感謝。
そして牛深在住のみなさまと同じように、八景を描き終えて私にも言わせていただきたい。

ふるさと牛深を愛してますと。  


Posted by hirok○ at 23:54Comments(2)牛深八景

2014年05月28日

結論:牛深は凄い-牛深第八景その2

今日の週間山崎君見ました!

けっこう牛深に時間使ってあってうれしく思いました。RKKさんありがとうございました。
ぼら山やおめき山のことは知ってました。私が聞いてきたのと少し違いましたが、当初はそういう由来だったんだろうなって思いました。語り継いだり時代が変わって少しずつ変化していったんだぁってそこにある長い年月と古い歴史を感じました。牛深の歴史紹介とてもよかったと思います。

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

今回の第八景でこの牛深八景は目標を達するわけですが、先に言っておきますとあと一回総まとめといいますか振り返りを行いたいと思います。いろいろその後わかったこととか補足追記などありますので。

ということで烏帽子炭鉱から前回の続きです。前半はこちら

この下須島中央部西海岸に面した炭鉱を牛深炭鉱と呼ぶ。
明治28年頃下須島の高取行三により開坑。面積2258745.41ヘクタール。埋蔵量約1100トン。
そこから産出される天草炭と呼ばれるものは日本一の品質の無煙炭であった。

この無煙炭とは高熱量でしかも排煙量が少ない特徴を持つ。時代は日清日露戦争時代である。低品質の石炭は燃焼時に多量の黒煙を発生するため、洋上で敵に発見される可能性が高かった。日本軍がこの天草無煙炭を欲しがらないわけがなかった。

燃料革命以前の日本ではそれはもう貴重なものだった。それゆえこの炭鉱掘削には海軍拡張計画に伴って軍からの援助金も出ていた。
そういうことから軍とも繋がりが強かったのだろう。港町で栄え同時期炭鉱でも栄えた牛深は後に軍へ戦闘機のゼロ戦を寄贈した。その名は【牛深漁業號】と記録されている。

だが良かったのはここまでで、この炭鉱は大企業が参入することがなくその少ない資本力と海底炭鉱であったため湧水に悩まされ完全開発が出来ず僅かな採掘量で閉山した。その後他の炭鉱を扱うところと同様じん肺患者を多く生んだ。悲しい歴史でもあることは前提としておいて、戦時中でありたとえば当時の戦艦には石炭燃料を大量に詰め込むわけですが寝床まで石炭がつめられた軍の方々も同じ環境下だったことは記載しておきます。

そして牛深も収めた石炭で日本は日露戦争に勝利しました。ここでちょっと牛深からは脱線しますが天草に関係するおもしろいお話を一つ。

当時はアジアの小国日本が大国ロシアに勝てるわけがないと世界中が思っていました。
勝てた理由のうち大きく二つがあるとわたしは思っています。

一つは日英同盟。ここでは詳しく書きません。
もう一つは当時世界一だと恐れられていたロシアのバルチック艦隊を破ったことです。詳しく書きたいですが簡潔にいきます。

バルチック艦隊がウラジオストックに行くには対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3箇所があり得た。その3箇所すべてに日本は戦力を分散すれば各個撃破されかねず、戦力を集中していずれか1箇所に賭けざるを得なかったわけですが、ここで天草高浜生まれ赤崎伝三郎が出て来るのです。

バルチック艦隊が石炭補給のため喜望峰を回ってマダガスカルに寄港。これを見つけた赤崎はインドの日本領事館にこのことを通報。バルチック艦隊の回航を最初に通報した日本人だった。このようなことから連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊は対馬海峡を通過すると予測し主力艦隊を配置。
ここで戦闘になりロシア艦隊壊滅状態、日本の損害はわずかに水雷艇3隻のみ、完全勝利となった。

この圧倒的勝利がロシアに戦意を消失させ日本優位のポーツマス条約を結ばせることとなる。

天草人すげーぞ!よくやった!

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この小森海岸には近年天草夕陽八景の説明石碑が作られている。そこにはキャッチコピーとして『ゴッドメイド、マンメイド』と書かれている。

龍仙島がゴッド(神)がメイド(作った)したもの。
烏帽子炭鉱がマン(人)がメイド(作った)したものということだ。

他の夕陽八景の場所とは異なり、ただの夕陽ではなく格が違うということはお分かりいただけただろうか。



想いを載せて版画で満月をえがきました。(クリックにて拡大)
その夕陽は歴史を知ったあなたが直接訪れてその目で見ていただきたい。

『♪風澄みて薫るたちばな 槌ふるう炭鉱のひびきよ
   人の和に くらし楽しく とこしえの栄えをまねく
   おゝ 牛深市 伸ばそう明日のふるさと~♪』(旧牛深市歌3番)


牛深八景をここまで読んでいただいてお付き合いいただきましたことに大変厚く御礼申し上げます。率直な感想としてはやり遂げた感はあるかな。とても嬉しく思います。本当にありがとうございました。

感謝感激雨あられでございます。









  


Posted by hirok○ at 23:19Comments(0)牛深八景

2014年05月27日

結論:牛深は凄い-牛深第八景その1

徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に朱の円がゑがかれて居た。

朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。

それは鹿児島の大大名、天下に聞えた島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、是が我が国旗、日の丸の始まりである。

模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。

明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の時の作文
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こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!
とうとう私の牛深八景も第八景になってしまいました。

最後はどこを描くと思いますか?
牛深第一景は朝日に始まりました。

そして夕陽も描きました。意識したわけではありませんがやはり太陽中心になってしまいましたね。そして夕陽といえば『夕陽百景』なるものがあるのですが現在全国で68箇所かな?あるうち牛深は黒石と小森の2箇所が選ばれております。全国で68箇所しかないものに牛深は二つも入ってるんですよ。そう思うだけでも凄い。

ということで今回描く場所はその中でも特に魅力ある『小森海岸』です。
『天草夕陽八景』にも選ばれていますが、立地的なことかもしれませんが、訪れる観光客の少なさというか人気のなさを悲観してます。なのでここ牛深ではもっと力入れて周辺整備しましょうよっていうご提案です。

その魅力についてまとめていきますね。
まず小森海岸から海を眺めると、同じ視界に夕陽と龍仙島と烏帽子炭鉱跡を同時に見ることが出来る。

日本夕陽百選からの紹介文を転載
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小森(こもり)海岸
牛深港から美しい曲線を描くハイヤ大橋を通り約30分ほど車で走ると、海の上に突き出た炭坑の坑口跡(こうぐちあと)(烏帽子瀬(えぼしせ))が見える場所に出る。遠くに天然記念物の片島、目の前は烏帽子瀬という風景の中に現れる夕陽は、神々しいまでの荘厳な光景を繰り広げる。古代人はこの夕陽にきっと手を合わせ、ひれ伏したに違いない?そんなことを思わせる夕景だ。
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後半の文章は結構好きなのですが、えと・・・ちょっとだけ言うと、ハイヤ大橋から30分も車で掛かります?10分ぐらいで着かないですかね?遠く思われてしまうと思う。30分って下須島余裕で一周できるでしょ。それと片島の正式名称は龍仙島なので龍仙島(片島)と表記しないといけないでしょうね。

*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.

龍仙島が牛深にとってとても大事だったことは第六景で記述したとおりだ。

もう少し牛深のおもしろい伝説を付け加えると、天草島原の乱の際キリシタン軍資金百万両の宝がこの島の洞窟の中に入れたままになっているとか、敗北したキリシタン信者が極刑を恐れてこの島に逃れて生活をしたなどの伝説が語り継がれている。

そしてこちらが牛深の消印なのですがもちろん伊勢海老の後ろに描かれているのが龍仙島ですね。


国の天然記念物になった経緯を詳しく説明すると昭和6年地質学者の大島博士が調査されその結果地質が第二紀古層で鹿児島の桜島と同地質であり、天草島の地質とは全く異なるとても珍しいものとして天然記念物指定されたそうだ。

太古の昔桜島の噴火がここまで来た可能性があるということだ。
なんか地球規模でもの凄いな。うんやっぱすげぇ龍仙島。


『♪夢と浮く 龍仙島の シルエット あぁ静寂の大自然~♪』(旧牛中校歌)


そして烏帽子炭鉱に続くのですがそれはまた次回に!こちら






  


Posted by hirok○ at 05:48Comments(0)牛深八景