2013年08月07日

見えない辨財天を探しつづけて-牛深第五景

牛深八景も折り返し地点を過ぎ第五景になりました。
完成いたしましたので公開いたします。

前々回考察した藍より青くがこんなに自分の中で大きくなるなんて思っていなかった。

事前に言ってましたようにその石碑がある通天公園からの景色がわたしの牛深第五景です。

こんにちわ!
はじめましての人ははじめまして!

最初にこちらの写真をご覧ください。

(白黒の写真に彩色いたしました)

こんな情緒ある場所が牛深にあったんだ。
ご存じの方はわかってると思いますがここが当時正式には辨財天岩という場所。牛深では「べざいてん」と呼ばれ親しまれていたそうだ。

場所はこちら


現在県の水産試験場にするため埋め立てられている。

当時の観光案内などにはこの写真の場所が牛深名所7箇所のうちの一つとして紹介されている。

なぜそんな大事な場所が埋め立てられてるんだろうって誰だって思うだろう。

水産試験場ができたのが昭和36年ということなので埋め立てたのもその近年だろう。その頃の牛深の漁獲高は落ちている時期ということで想像してみた。

全国2位の漁獲量を誇った昭和24年当時から、その第一人者である浜中謙太郎さん、いわゆるけんたろどんはいつか不漁の時代が来ると予測し乱獲するだけではなく養殖にも力を入れないといけないと先を見越していたと聞く。

その流れは大きいだろう。

戦後高度経済成長の時代に並行して牛深の漁業を守るために試行錯誤した結果なんだと思う。

辨財天(弁財天)に戻りますが、弁財天とはもともとヒンドゥー教の女神であるとかはほぼ関係ないと思うので置いておいて、日本における弁財天とは日本神話に出てくる七福神の一人で神道(天皇)の教えが強いであろう。

こう思った時に戦後の人々の根底にある戦争への想いは少しはわかっているつもりなのでそれへの反抗心もあったのかもしれない、そんなに大事に思えなかったのかななんて思った。

当初なんでこんな場所を埋め立てたんだ!なんで当時の人は何も言わなかったのかなんて思ったりしてたが悲しくもあり仕方がない複雑な気持ちになった。

ただ、これからは日本が日本たる由縁であるこういうものはできるだけ残して大事にして行きたいと思う。

ハイヤ節は牛深から全国へ広がった。逆に牛深へ入ってきたものの一つが茨城県大洗町発祥の磯節。

ハイヤ節と同様酒盛りや祝いの席で歌われているものであるが、牛深で残っているものは大洗の磯節と比べるとテンポが早くアレンジされていて、原曲の歌詞はそのままではあるが牛深独自の歌詞が2番ほど付け加えられている。

今回はその中の一つ38番を記載して前半を終えます。

♪牛深港を 瀬戸外(ほか)ずれば   〈いちにのさんさんとっ〉

右に黒島 左は弁財天

沖(さきは)平瀬   〈よいよい〉

後ろ向きゃ 宮崎八幡様よ♪



ね、弁財天歌詞にもなってすごい大事にされてるじゃない。


*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪。★*・゜*.♪


私自身子供の頃(小学生に上る前)の話になるのですが、絵を描くのが大嫌いだった。

その理由は、精神面が大きく作用していて何をするにも引っ込み思案で臆病だった。

自分が描いたものを人に見せるのが怖かったので絵を描くのが嫌いと言って避けていたのだ。

その転機になる出来事が今回の場所通天公園にはあった。

写生大会が通天公園で行われていたのを覚えていらっしゃる方はいますでしょうか?後にうしぶか公園へ会場が移る前ですね。

そこで幼稚園児だったわたしは通天公園に当時あった黄色い展望台を描いた。

もちろん幼稚園児なので両親に手伝ってもらって描いているwわけですが描き終わって提出する際、係の方にこれは凄いと褒めてもらって嬉しかったのを覚えています。

後にそれは何かの賞を頂いたのですが、これが後の僕の人生に大きく影響を与えてしまう出来事になってしまいました。

その展望台に登って今回夕日を描きたかったのですが、今はなかったのでその場所からの海を描きました。

記録のため前半の磯節の場所と合わせて載せます。


依頼された絵でしたので後にポスターやフライヤー用に加工しやすいようにデジタルで描きました。
それではどうぞ。


(クリックにて拡大出来ます)
江戸時代から現代までこの海のこの場所をたくさんの船が横切った。それはもう数えられないくらい。

この景色も間違いなく残すべき歴史ある場所ですね。


  


Posted by hirok○ at 21:04Comments(7)牛深八景