2014年05月28日

結論:牛深は凄い-牛深第八景その2

今日の週間山崎君見ました!

けっこう牛深に時間使ってあってうれしく思いました。RKKさんありがとうございました。
ぼら山やおめき山のことは知ってました。私が聞いてきたのと少し違いましたが、当初はそういう由来だったんだろうなって思いました。語り継いだり時代が変わって少しずつ変化していったんだぁってそこにある長い年月と古い歴史を感じました。牛深の歴史紹介とてもよかったと思います。

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

今回の第八景でこの牛深八景は目標を達するわけですが、先に言っておきますとあと一回総まとめといいますか振り返りを行いたいと思います。いろいろその後わかったこととか補足追記などありますので。

ということで烏帽子炭鉱から前回の続きです。前半はこちら

この下須島中央部西海岸に面した炭鉱を牛深炭鉱と呼ぶ。
明治28年頃下須島の高取行三により開坑。面積2258745.41ヘクタール。埋蔵量約1100トン。
そこから産出される天草炭と呼ばれるものは日本一の品質の無煙炭であった。

この無煙炭とは高熱量でしかも排煙量が少ない特徴を持つ。時代は日清日露戦争時代である。低品質の石炭は燃焼時に多量の黒煙を発生するため、洋上で敵に発見される可能性が高かった。日本軍がこの天草無煙炭を欲しがらないわけがなかった。

燃料革命以前の日本ではそれはもう貴重なものだった。それゆえこの炭鉱掘削には海軍拡張計画に伴って軍からの援助金も出ていた。
そういうことから軍とも繋がりが強かったのだろう。港町で栄え同時期炭鉱でも栄えた牛深は後に軍へ戦闘機のゼロ戦を寄贈した。その名は【牛深漁業號】と記録されている。

だが良かったのはここまでで、この炭鉱は大企業が参入することがなくその少ない資本力と海底炭鉱であったため湧水に悩まされ完全開発が出来ず僅かな採掘量で閉山した。その後他の炭鉱を扱うところと同様じん肺患者を多く生んだ。悲しい歴史でもあることは前提としておいて、戦時中でありたとえば当時の戦艦には石炭燃料を大量に詰め込むわけですが寝床まで石炭がつめられた軍の方々も同じ環境下だったことは記載しておきます。

そして牛深も収めた石炭で日本は日露戦争に勝利しました。ここでちょっと牛深からは脱線しますが天草に関係するおもしろいお話を一つ。

当時はアジアの小国日本が大国ロシアに勝てるわけがないと世界中が思っていました。
勝てた理由のうち大きく二つがあるとわたしは思っています。

一つは日英同盟。ここでは詳しく書きません。
もう一つは当時世界一だと恐れられていたロシアのバルチック艦隊を破ったことです。詳しく書きたいですが簡潔にいきます。

バルチック艦隊がウラジオストックに行くには対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3箇所があり得た。その3箇所すべてに日本は戦力を分散すれば各個撃破されかねず、戦力を集中していずれか1箇所に賭けざるを得なかったわけですが、ここで天草高浜生まれ赤崎伝三郎が出て来るのです。

バルチック艦隊が石炭補給のため喜望峰を回ってマダガスカルに寄港。これを見つけた赤崎はインドの日本領事館にこのことを通報。バルチック艦隊の回航を最初に通報した日本人だった。このようなことから連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊は対馬海峡を通過すると予測し主力艦隊を配置。
ここで戦闘になりロシア艦隊壊滅状態、日本の損害はわずかに水雷艇3隻のみ、完全勝利となった。

この圧倒的勝利がロシアに戦意を消失させ日本優位のポーツマス条約を結ばせることとなる。

天草人すげーぞ!よくやった!

*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.

この小森海岸には近年天草夕陽八景の説明石碑が作られている。そこにはキャッチコピーとして『ゴッドメイド、マンメイド』と書かれている。

龍仙島がゴッド(神)がメイド(作った)したもの。
烏帽子炭鉱がマン(人)がメイド(作った)したものということだ。

他の夕陽八景の場所とは異なり、ただの夕陽ではなく格が違うということはお分かりいただけただろうか。



想いを載せて版画で満月をえがきました。(クリックにて拡大)
その夕陽は歴史を知ったあなたが直接訪れてその目で見ていただきたい。

『♪風澄みて薫るたちばな 槌ふるう炭鉱のひびきよ
   人の和に くらし楽しく とこしえの栄えをまねく
   おゝ 牛深市 伸ばそう明日のふるさと~♪』(旧牛深市歌3番)


牛深八景をここまで読んでいただいてお付き合いいただきましたことに大変厚く御礼申し上げます。率直な感想としてはやり遂げた感はあるかな。とても嬉しく思います。本当にありがとうございました。

感謝感激雨あられでございます。









  


Posted by hirok○ at 23:19Comments(0)牛深八景

2014年05月27日

結論:牛深は凄い-牛深第八景その1

徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に朱の円がゑがかれて居た。

朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。

それは鹿児島の大大名、天下に聞えた島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、是が我が国旗、日の丸の始まりである。

模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。

明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の時の作文
----------------------------------------------------------------------

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!
とうとう私の牛深八景も第八景になってしまいました。

最後はどこを描くと思いますか?
牛深第一景は朝日に始まりました。

そして夕陽も描きました。意識したわけではありませんがやはり太陽中心になってしまいましたね。そして夕陽といえば『夕陽百景』なるものがあるのですが現在全国で68箇所かな?あるうち牛深は黒石と小森の2箇所が選ばれております。全国で68箇所しかないものに牛深は二つも入ってるんですよ。そう思うだけでも凄い。

ということで今回描く場所はその中でも特に魅力ある『小森海岸』です。
『天草夕陽八景』にも選ばれていますが、立地的なことかもしれませんが、訪れる観光客の少なさというか人気のなさを悲観してます。なのでここ牛深ではもっと力入れて周辺整備しましょうよっていうご提案です。

その魅力についてまとめていきますね。
まず小森海岸から海を眺めると、同じ視界に夕陽と龍仙島と烏帽子炭鉱跡を同時に見ることが出来る。

日本夕陽百選からの紹介文を転載
----------------------------------------------------------------------
小森(こもり)海岸
牛深港から美しい曲線を描くハイヤ大橋を通り約30分ほど車で走ると、海の上に突き出た炭坑の坑口跡(こうぐちあと)(烏帽子瀬(えぼしせ))が見える場所に出る。遠くに天然記念物の片島、目の前は烏帽子瀬という風景の中に現れる夕陽は、神々しいまでの荘厳な光景を繰り広げる。古代人はこの夕陽にきっと手を合わせ、ひれ伏したに違いない?そんなことを思わせる夕景だ。
----------------------------------------------------------------------

後半の文章は結構好きなのですが、えと・・・ちょっとだけ言うと、ハイヤ大橋から30分も車で掛かります?10分ぐらいで着かないですかね?遠く思われてしまうと思う。30分って下須島余裕で一周できるでしょ。それと片島の正式名称は龍仙島なので龍仙島(片島)と表記しないといけないでしょうね。

*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.

龍仙島が牛深にとってとても大事だったことは第六景で記述したとおりだ。

もう少し牛深のおもしろい伝説を付け加えると、天草島原の乱の際キリシタン軍資金百万両の宝がこの島の洞窟の中に入れたままになっているとか、敗北したキリシタン信者が極刑を恐れてこの島に逃れて生活をしたなどの伝説が語り継がれている。

そしてこちらが牛深の消印なのですがもちろん伊勢海老の後ろに描かれているのが龍仙島ですね。


国の天然記念物になった経緯を詳しく説明すると昭和6年地質学者の大島博士が調査されその結果地質が第二紀古層で鹿児島の桜島と同地質であり、天草島の地質とは全く異なるとても珍しいものとして天然記念物指定されたそうだ。

太古の昔桜島の噴火がここまで来た可能性があるということだ。
なんか地球規模でもの凄いな。うんやっぱすげぇ龍仙島。


『♪夢と浮く 龍仙島の シルエット あぁ静寂の大自然~♪』(旧牛中校歌)


そして烏帽子炭鉱に続くのですがそれはまた次回に!こちら






  


Posted by hirok○ at 05:48Comments(0)牛深八景

2014年05月10日

完全金刃比羅神社マニュアル-改訂版-

前回の続きです。前回はこちら

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

神様の活動時間は夜中なので神様にお会いしたいときは夜中に!なんて、そんなこと言っても前回書いたことがあるとなんかちょっと恐ろしかったりしますねw

舟津郷の金刃比羅神社(上写真)の漢字が間違ってるのではないかとモヤモヤしてて、個人的に気持ちが塞いでしまった事と他の事も重なってすべての調子が悪くなった。

解決出来るかわからないけれど、熊本の琴平神社に行こう!と突然思い立ち行って来ました。

熊本では古くから「一に清正公、二に高橋稲荷、三が別所のこんぴらさん」といわれている神社だそうだ。
参道を通り、お清めをすると穢れが流され少し気持ちが楽になった。

おみくじを引くと末吉で、書いてあることが当たっていて神様はほんとよく見てらっしゃるなっていつも思う。
今は我慢の時期、焦って自己を見失うなとのお言葉にほんと救われる。


絵馬やお守りと大漁祈願をお受けしてきた。絵馬は後日奉納させていただくのでしっかり書き込み致します。

そしてありがたいことに突然の参拝であるのにも関わらず宮司さまとお話することが出来た。いろいろお話していただき本当にありがとうございました。

結論から言いますと、『金刃比羅』で大丈夫だそうだ。漢字自体はどこの神社も当て字であり、漢字が入ってくる前はもちろん古代文字など漢字ですらなかっただろうとのこと。

牛深に創建された祭司がその当て字にしたのであればそれで間違いではないとのこと。

あ~良かった。

確かに言われてみれば、こんぴらさんとか愛称まであるし表記が違っても長い年月ご神体は変わらず同じ神様を祀っていると思った。

熊本の琴平神社もいろいろと変遷があったそうだ。拝殿の中まで案内してくださりご説明を頂いた。


その場所場所によって変遷経緯はあるだろう。牛深ではそれを語り継げなくなってわからなくなっただけだ。語り継げなくはなったけど、文字でしっかり残してくれてたんだな。

そして金刃比羅神社として長い間信仰してきた。だったら今からわざわざ変える必要もない、むしろ変えてはいけないと思った。

今更ですが、以前の鳥居が昭和30年台に出来たかどうかも推測でしか無かった。しかもその鳥居が仮にその時代だとしても、その鳥居の前の鳥居もそう書いてあったかも知れない。悪い方に想像しすぎてましたね。

ほんとに実際は当時間違えたのかもしれません。でも牛深だけ金刃比羅という漢字を使ったことは逆に言えば、日本一の漁港としての他とは違うんだという意思表示であったのかもしれないな、笑。

とか思うとなんかいじらしくて素敵。

〈崇徳天皇について追記〉
前回の記事で明治天皇が即位する前日に崇徳天皇は京都にお戻りになられたと書いた。
そして大政奉還、王政復古の大号令で朝廷に政治権力が戻った。この時点で残った者が作り出してきた崇徳天皇の怨霊は消えたものと考えられてもいいのではないか。それだけ恐ろしい影響力を持つ神様を味方につけたらこんなに頼もしいことはないというのが今でも祀られている理由でもあると聞く。

そして現在祇園で崇徳天皇の恋人だと呼ばれる方がいらっしゃるそうだ。
崇徳天皇の御廟の近くでお茶屋の女将をされているとのこと。崇徳天皇の本を読んでみると、自分の事のように昔を懐かしみ自然と涙がこぼれたそうだ。それ以後度々崇徳天皇は枕元に立たれ会話をされ、崇徳天皇のお気持ちを現代に伝える代弁者の役割を果たされている。その女将さんは言う。
『もう怨霊は取れてるんですわ。いい神さんになってはるから』と。

これにて崇徳天皇の逆鱗に触れた説は自己完全否定いたします。

*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.

浮世絵が好きで東海道五十三次をよく見てた。その中にもこんぴら参りは描かれている。
江戸時代にはお伊勢参りと同じくこんぴら参りが日本中を一世風靡したと聞く。
初めて熊本の琴平神社にお参りに行きましたがとてもいいものだなと思った。


偶然幸運にも祭日で国旗が掲揚してあった。

鮮やかな緑と立派な拝殿とたなびく日の丸。
差し掛かっていた雲が晴れていくのが見えた。日本人で良かったと心から思った。










  


Posted by hirok○ at 04:56Comments(0)休題、その他なんでも

2014年05月08日

完全金刃比羅神社マニュアル

今回は舟津郷金刃比羅(ことひら)神社、いわゆるこんぴらさんについて調べたものをまとめようと思います。

以前八景で恵美須神社を描いたときにこの金刃比羅神社についても書こうとしてましたがあのときまとめないで良かったと今思っています。あのとき書こうとしてたことと今になって書こうとしていることは全くの正反対になってしまったからです。

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

今回のまとめのテーマは地元牛深でも議論になっていると聞く『金刀比羅』か『金刃比羅』か(刀か刃の違い)についてである。ちょっと長くなりそうなので特に伝えたく重要なのは後半の結論ですので、前半は飛ばしてもらって構いません。ご興味あられる方は時間つぶしにでも使って読んでやってください。

この議論が出たのは近年恵美須神社と同じくこの金刃比羅神社も鳥居を新しくされたときのことだ。元あった鳥居の表札にこう彫ってありそれと全く同じ文字を彫ったということだった。(この文字は境内裏に保管してある)
全国には大小約600社ある神社であるわけですが、私がネットで調べた範囲で申し訳ないのですがこの牛深の『刃』を使っている神社は全国他に一社も見つけることができなかった。崎津の金刀比羅神社に行った時も確認したら『刀』だった。もしかしたら天草では『刃』を使ったのかな?という仮説を立ててみたもののすぐ否定された。このことが私の中で、『刃』は間違いではないかという疑問に大きく影響を与えていました。

地元歴史家の方たちも『刀と刃では、漢字の意味が全くの別物なのでこれは間違い』だと主張されているのを聞いた。私も全く同じ考えだった。

それでまずこんぴらさまの総本宮を調べる事にした。
香川県仲多度郡琴平町にあり、祭神は主に大物主神崇徳天皇であります。
大物主についてはご存知の方が多いと思いますし、古事記と日本書紀において違いがありますので詳しくは書きません。簡潔に金刀比羅宮の公式から転載しますと大国主神の和魂で国造りの神様。万物をつかさどることをたたえた神名の通り、五穀豊穣や産業、文化などの繁栄と、国や人々の平安を約束してくれる神様です。特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集めるとのこと。

そして私が特筆するのはもう一神崇徳天皇についてです。
崇徳天皇の表の歴史は語られますが裏の歴史はあまり語られません。
崇徳天皇(1119年-64年、在位1123年-42年)
1864年 700年式年祭(700回忌)に時の孝明天皇は白峯社創建を命ぜられた。
1964年 800年式年祭(800回忌)に昭和天皇は白峯御陵に勅使を差し遣いになられた。
崇徳天皇が崩御されて800年以上経った今でも鎮魂の祭祀が執り行われている。
なぜこれまで長い間御霊鎮めが行われているのかと言うのが教科書では教えない裏の歴史なのだと思う。

崇徳天皇を語るには保元の乱(1156年)を外せないのですが、ほんと長くなってしまいますのでこれも簡潔で申し訳ありません。保元の乱とは天皇方と上皇方(天皇の父、崇徳天皇の弟を天皇にしたい)に別れた皇位継承問題から発生したいわゆる兄弟げんかなのである。
その保元の乱に敗れ讃岐に流された悲劇の天皇で朝廷に恨みを持ち自ら舌を切りその血で経文に天下滅亡の呪いを書き残し憤死したと伝えられる。没後様々な怪奇現象や凶事が起こり、国家動乱も相次ぎさらには平氏政権が誕生し朝廷から政治権力が切り離された。

没後100年、200年・・・と百年祭前後3年間ごとに国家を揺るがす動乱が起こる。細くは省略いたしますが朝廷と幕府が対立したり応仁の乱だったり元寇(日本最初の外国からの戦争)だったり壇ノ浦の戦いなどなどだ。

こういう史実から崇徳天皇は怨霊として恐れられ、1864年孝明天皇は白峯社(京都)創建を命ぜられたのである。崇徳天皇は讃岐で京都に帰ることを願い続けたが叶わぬ夢であったのだが没後その神霊は700年ぶりに京都にお戻りになられたということになる。明治天皇が即位する前日の事だった。事前に崇徳天皇と朝廷が和解をしておく必要があった為だと聞いて納得した。

崇徳天皇が怨霊になったと書いたが、これは幽霊が存在するとか科学的に証明出来ない物を、そういうオカルト的な事を言っているのではありません。追い落とした者達が追い落とされた者を鎮魂しているのは矛盾していているのにも関わらず800年以上経った今でも祭祀を行っている。没後の史実が崇徳天皇に全く関係ないかも知れない。けれども朝廷に恨みを持ち朝廷の存続に関わる凶事が関係年に必ず起こった事実が恐怖心を増大させた。実際余程の恐怖心がなければここまで行われないはずで残された人々がここまで行ってきたことが崇徳天皇を怨霊に事実化させたのだ。
崇徳天皇図

そこで牛深の『金刃比羅神社』の漢字を想った。
ここからは私のほんと個人的に考えた事です。関係者に不快にさせてしまいましたらいけないと思いますので事前にお詫びいたします。申し訳ございません。ですが後に自己否定しますのでご安心ください。

舟津郷の金刃比羅神社がいつ創建されたのかは私はわかりません。今の場所には昭和になるまで道は無かった(遠見番所役人の家族のお墓があった)と思いますので違う場所にあったのか小さくてもあったのかもしれません。鳥居の劣化から見て仮に場所が下の恵美須神社と同時期に立てられたとすると昭和36年、この時代は牛深のいわし漁業繁栄期。今までこのブログで書いてきたように日本一の漁港とまで謳われた牛深漁港がこの時期を境に衰退を始める。現在の牛深の衰退は当時の方がこの漢字を間違えて創建してしまった為崇徳天皇の逆鱗に触れたのではないかと思った。

これは一刻も早く文字の修正を行わないといけないと考えた。
幸いにも私は以前少し書いたことがあるが、こういう看板や標識いわゆるサイン関係の仕事に関わっているのでわかるのですが、文字の表示面をすべて変えることになるとそれはそれで費用がかかる。今回は『刃』を『刀』に変えるというか『、』を埋めればいいだけなのでこういう修正は同素材の石の削り粉を接着剤と練り合わせ埋めるやり方がある。これはほんとに作業代程度でほんと安く補修することが出来る。ここまで考えて区長さんへ提案をしようとまで考えてた。

これをやらないと牛深の復興はありえないとさえ思った。こういうことで流れが一気に変わり繁栄することがよくあるということはみなさんご存知のことだと思う。

と、ここまでが以前私が書こうとしてたことでした。
ですが繰り返しますが結論を出すのはもう少し待ってください。
一回で全部書くつもりでしたが思いのほか時間がかかってしまいましたのでこの続きはまた次回後半に致します。後半で完全否定いたしますので再度書きますがご安心を。

続きは→こちら





  


Posted by hirok○ at 06:17Comments(0)休題、その他なんでも

2014年05月02日

みんなだいすき牛深小学校!

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

今回は牛深小学校についてまとめます。

簡単な歴史については先日の旧牛深小閉校のときの市報に載っておりましたので、ご覧になられた方もいらっしゃると思います。今回その始めの部分について私の持っている史誌より抜粋いたします。最近の歴史については省略いたします。

学制がしかれる前の牛深の学習施設は、『硯寿堂』(加世浦区)と『秀月庵』(真浦区)が主な寺子屋私塾だったとのこと。

硯寿堂、秀月庵共に長崎から支配を受け牛深村遠見番役人が教えていた。

明治八年(1875年)
公立牛深小学校設立。場所は観音庵(寺子屋)を借りる。番地は鬼塚一九一七となっているので今より少し街寄りでしょう。

明治十五年(1882年)に船津に牛小分校を新築。これを潮西小学校と称し、本校を潮東小学校と呼んだ。

同年、天附に潮東小の分教室を設置。

翌十六年、須口に潮東小分校設置、茂串に潮西小分校設置。

明治二十年(1887年)潮東小敷地に潮西小が移設され牛深小学校となる。
第一回卒業生は男子十六名、女子一名。計十七名だったそうだ。これが牛深小の始まりだ。

天附小はその後明治二十二年に独立した。
このことでわかるように、今年天附小は廃校になり新牛小に統合されましたが、天附の子供たち悲しがらないで大丈夫。もともと牛小だったのだから『母校さようなら』ではなく、『母校ただいま』なのである。

牛小先輩から一言言わせて
『天附の子供たち、おかえり(^^) そして二浦、魚貫の子供たち歓迎ようこそ!』


*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.


先日の新牛深小開校式のとき教室を見て回ってたら、廊下に人文字の航空写真が並べてあった。

一番最初の写真は平成元年の写真だった。


これには私も並んだのを記憶していますがどこにいたのかは忘れてしまってました。どこだったかなぁ?
でも懐かしかった。


この写真でも写っているように、牛小の象徴といえば2本のせんだんの木でしょう。
この歴史については説明板が根本に設置してあったので一部転載します。

『明治三十三年(1900年)に当時の地元区長らにより校庭に植樹されたもので、当時は5㌢ほどの大きさでした』とのこと。

あのせんだんの木は114歳なのか。

まだまだ長生きして欲しいですね!
せんだんの木の絵を描こうと思ってましたが、見事な枝の広がり具合に時間がかかりすぎて今回は断念いたしました。

なので新牛小開校初日の記念日に撮影した写真を載せまして終わりにいたします。

これからも子供たちを見守ってね!おしまい!



  


Posted by hirok○ at 05:01Comments(3)休題、その他なんでも