2013年12月21日

藍より青くを知らずに僕らは育った

こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

このかたらんなサイトもリニューアル後初めての投稿です。

かたらんな運営様リニューアルおめでとうございます。
お疲れ様でございます。そしていつもありがとうございます。

タブレット用の画面も出来てるじゃないですか!さすが時代の波に乗ってますね!
iPadから見やすい見やすい。

私のブログレイアウトもリニューアルしようかな・・いやいやそんな時間はなかったw

話は変わりますが、時間ないとか言いながら先日THE MANZAIを見ました。

その年の一番おもしろい漫才師を決めるやつ。

作業しながら聞いてたんですが、風藤松原とういうコンビのネタでことわざの最初を言って後をボケるみたいなのがあった。

その中で『青は藍より出でて・・・』ってフリが聞こえてTVに視線をやった。

『僕は君だけを傷つけない』

BZの歌詞っぽくなってるwってツッコミだったwww

これ面白かったですね。

*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪。★*・゜*.♪

藍より青くの動画が見たいーーって言ってましたでしょ?

NHKも保存してないとか言われてて絶対見れないんだなって諦めてた。

笑。なになに、この書き方は動画見れたみたいな書き方ですよねwww

やはり全部はNHKでも保存してないみたい。


・・・・・・・・・・・・でも・・・・・

でも1話だけは残ってるみたいで、その一部公開されてた!!!



きゃーーー牛深市名前出てるーーー!!!

ちょ、早くどこで見れるんだよ!って怒らないでくださいよw
もったいつけてすみませんwwww

みなさんもどこで見れるか知りたいですよね!?



それではどうぞ
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藍より青く動画

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いやぁ、真紀しゃんが自転車こいでるのはどの辺りなんだろう?いい雰囲気でてるなぁ。

見れて感動。全部見せて!



あと今回自分の過去のブログ読み返してみたらすごい堅いなって思って普段はそんな性格ではなくバカなことばっかりやってます。なのでお笑いもたまには見るよっていうのも書いてみました。


  
タグ :藍より青く


Posted by hirok○ at 02:56Comments(1)考察「藍より青く」

2013年12月13日

彼女が煌めく砂浜ではしゃいだ時僕は希望への第一歩を歩みだした



牛深の歴史と言っても、「年代によっていろいろありますので、まず調べる年代を絞ることにしました」と最初に書いた。

テーマを漁業時代に絞ったのには私の中にいろいろな理由があった。

もちろん興味があったことは間違いないのですが、その先に見たい歴史が漠然とですが見えていて確証はないけどそれが、わからないながら大切なモノであることは感じていた。


こんにちは!
はじめましての人ははじめまして!

帰省して10日が経ちました。連日牛深の歴史調べに走り回ってます。
立ち寄った砂月の白浜で一枚。


絵じゃなくてすみません。絵も少しずつ描いているのですが調べるだけで時間がなくなってしまって・・・
そういえば砂月についてですが、わたしはずっと「さづき」と発音してました。

わたしの周りでもみんな「づ」と発音してたので近年牛深の道路標識が新しくなってこういう風に書いてあって間違えて発音してたんだって気が付いた。


アルファベットの所見るとSatsukiと書いてある。

これでは標識が間違ってるのでは?と思われる方もいらっしゃると思う。
ソース出します。

この地図は明治18年(1885年)に海軍が測量した地図なのですがSatsukihamaとしっかり書いてある。

さらに見づらいですがあの伊能忠敬の地図1810年。

こちらにはカタカナでサツキと書いてありますね。

まぁ地名なので訛って今の呼び方になっているのでしょうね。牛深に関して言えばその他にもこういうところがいくつかあるみたいです。

訛るのは悪いことではないと思っています。ただし、正確な呼び名は知ってないといけないと思い直しました。

それよりもいたるところにあるこのハングルどうにかならないものか。牛深の人はこれに反対する人はいないのかな?


*.♪★*・゜・*♪*.♪★*・゜*.♪★*・゜・*♪*.♪。★*・゜*.♪



冒頭、その先に見たい歴史が漠然とですが見えていて・・・と書きましたがそのことについて今回自分にとっての転機が訪れた。

牛深のある歴史文化財についていつの日か私も勉強したいと思ってはいたが、牛深のことを何も知らないに等しい私がそれを教えて欲しいと地元の歴史研究家を訪ねに行ったところで、わかるはずもなく、その前に門前払いされるだろうと未熟過ぎる自分は恐れ多くて行けなかった。


現在牛深八景も私の構想の中では八景までほぼ出来上がっていて、あとは絵を描いてまとめれば公開できる状態。終盤を迎え、多少見えてきた牛深にやはりその先のあの歴史があった。


わたしの知的好奇心は自分では抑えられなくなっていた。
今回断られること覚悟で訪問させてもらいました。


結果から言いますととても素晴らしいお話をたくさん伺うことが出来ました。

まず牛深のある歴史文化財とは何かを先に言わないといけませんね。
それは「牛深御番所」(天草の遠見番所)についてです。

まだ合併前の牛深ではございますがその方は当時の市報にこの歴史を紹介されていた。もちろん私もそのことを知っていてそれを今読むことができればいいなぁと思っていた。

当時も読んだことはあるとは思いますが小学生?中学生?の私は読んでも全く理解出来なかった。そういうものがあるという事だけが記憶に残っていたがその中身は全く知らなかった。

このことをお話されるにあたって、当時から現在まで地元牛深ではこの重要性をわかっている人がいないと嘆いておられた。

その方はその半生をこの御番所に注ぎ込んできた。それは自分の興味本位の趣味で調べたということとは比べ物にならない牛深への郷土愛そのものだった。

まだ私も調べ始めたばかりで私が説明できるなんて思ってもいません。

私なりに理解したことをここで公開していきたいと思っています。これは牛深八景よりも長期間になるものだと考えております。

無事八景を描き終えた後、その大テーマについてまとめていきたいと思いますが、おそらく数十回に渡るものだと予想されます。今回私の見解も含め簡単にさわりだけ少し。


時代は江戸時代。天草・島原の乱後、日本はキリスト教を恐れ鎖国時代に入る。

天草はその立地上外国船が入って来やすかった。それを取り締まるものが御番所である。

それがなぜ重要なの?これは私もずっとそうだった。

今の沖縄を想像して見てみてください。外国から入って来やすいということはそこから攻められて占領される恐れがあるということだ。

国と言うものは領土があって初めて成り立ち、領土が無くなればわかりきった話日本はなくなるのだ。
ほんとはここで竹島や尖閣諸島や北方領土や南樺太とかそんなことも書きたいんですけどそれも書き出すと長くなってしまうのでここでは書きません。だからといって大事じゃないっていう意味じゃないです。ここでは牛深の話を特に書きたいので。

そういう理由で当時の牛深(天草の玄関口)は日本にとってとても重要な場所だったのだ。


もっとわかりやすく言いますよ。
その証拠に天草は江戸幕府直轄で治め、天領天草と呼ばれていた。この天領とは天皇が治める領土と言う意味。天皇陛下ありがとうございます。個人的にはこれも感動モノです。

今で言う尖閣諸島を日本政府が買い取って治めたのと同じようなもの。

これでも伝わりませんか?もっと史実を書きますよ。

当時熊本はもちろんあの細川さんの肥後藩があるんです。
ですが、この牛深御番所に配属されていたお役人さんは長崎奉行所から来ているのです。

その理由はもちろん長崎と近いということもありますが、その頃の九州で一番の力を持っていたのは唯一出島で外国と貿易を許されていた長崎だったのです。

幕府直属で肥後ではなく一番の力を持っている長崎に治めさせた牛深の御番所。

全部言わなくてもこれだけでもこの重要さが伝わりませんか?


現在の牛深でこのことがあまり大事にされてこなかったのにはいくつかの理由があり、予想もおおよそつきます。

明治維新後廃藩置県で牛深は熊本県に編入される。
奉行所の大事な文献のほとんどが長崎ということで熊本牛深には残りにくかった。

現在ではその古文書も研究される方が少ない。ましてや古文書を読める方が牛深の事を調べようなんて思う機会も少なかっただろう。

もちろん私が訪ねさせてもらった方は古文書も読めて、牛深に関する古文書も集めそのすべてを現代でも読めるように直されていました。

その膨大な資料とびっしり書かれた大量のノートを見て、とても素晴らしいと思いますと私は言った。


天草の人たちはその重要性をわかっていないと何度もおっしゃった。
私も同じなのですがわかっていなかった。

でもこれだけはわかっていた。
故郷の歴史を知らない人がいくら故郷を好きだと言ってもそれはとても薄っぺらいものなのである。
あの櫻井よしこさんが言ってました。「あるフランスの哲学者の言葉に歴史を知らない人は人間じゃない」というのがあるそうだ。わたしも心からそう思う。


牛深にはハイヤはあるけれど、一般で知られているハイヤ(祭り)と言うものはその開催回数でわかるように今年で42回。言ってみれば42年しか歴史はないのである。これが牛深を代表するものとされている。

誤解がないように書きます。ハイヤがダメだとは言っていません。

その方がおっしゃるにはハイヤのような歴史の浅い民族文化は人口が減ればいつか廃れ将来の観光の基板にはなりにくいとのこと。

実際の現状もそうだ。

だがこういう発言が漁師民が多い牛深では受け入れがたいという側面も私はあると思う。

そこでわたしの提案はこうだ。

一般的に言うハイヤ祭りに関しては上記したとおりだ。だがそのハイヤ踊りの元になっている元ハイヤの歴史は古い。御番所の時代と重なってるのではないかとも思う。


元ハイヤを大事にしようとして活動されている方々も十分に知っています。ただ一般天草市民にまでは広まっていないようなかんじがします。そのことも大事にしながらこれからは御番所も大事にしていきましょうよ。まだ勉強不足で詳しくはわかりませんが元ハイヤと御番所も年代が同じであれば関係してるはずです。


その夜、就寝前その日のことを思い出しいろんな想いでなかなか寝付けなかった。
涙が溢れて止まらなかったからだ。

観光客を呼びたいと思っているが打開策がない現状に

私にとってはもちろんのこと、この御番所が牛深の希望の光りに、そして牛深の宝、ダイヤの原石だと思えて眩しかった。


私の残りの人生これに費やしても後悔しないのではないか。
私もやっとそこへの第一歩を踏み入れたと思う。















※お名前はご本人の希望もあり今は非公開にさせていただきます。ご存じの方もお名前は控えて頂けるようにお願い致します。そして市報をまとめた冊子をいただき、聞きたいことがあれば手紙でもくれれば返事を書くとのことで全面バックアップしてくださるとの事です。そのお言葉をとても嬉しく思います。本当に有難うございます。





  


Posted by hirok○ at 05:39Comments(4)牛深八景(取材)